本屋とコンピュータ(26〜33)2003年
*07年3月に刊行した『希望の書店論』に収録された06年4月までのコラムを年次ごとにまとめました。

        福嶋 聡 (ジュンク堂 池袋店)

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「『ブック・オフ』を否定するためには、本を棄てることができなくてはならない。」「ブック・オフ」についてコメントを求められた時に、ぼくがいつも言う台詞である。これは決して「ブック・オフ」を擁護、応援するための台詞ではない。新刊本屋の書店人として、ぼくにはそうした動機はない。ただ、「ブック・オフ」の存在と興隆に脅威を感じる新刊本屋や出版社の人たちのヒステリックな弾劾からは距離を措きたいと思う。自らの既得権が犯されることを理由とした弾劾は、外部の共感を得ることが難しいからだ。考えるべきは、何故「ブック・オフ」という業態が業績を伸ばしているのか、そのことの理由なのである。

 「安く買えるから」、それが、読者というわれわれの業界の顧客が、「ブック・オフ」に流れる大きな理由であることは間違いないだろう。だが、それだけでは「ブック・オフ」が業績を伸ばすことはできない。「新古書店」といわれるこの業態は、その名の通り古書店のニュータイプであり、そこに「売る読者」の存在がないと成立し得ないからである。「売る読者」は、「買った読者」であり、まさにわれわれの顧客でもあるのだ。彼らは何故「売る」のか?

 「ブック・オフ」の買い取り価格設定を見る限り、それが経済的な理由であるとは思いにくい。投機的な本の売り買いをする人ならば、従来の古書店に売るであろう。むしろ、「棄てられないから」売る人たちが多いのではないだろうか。買った本を家には置ききれない、だが棄てることもできない、そうした人は「売る」しかない。二束三文かもしれないが、「ブック・オフ」は買ってくれる。大した額ではないが、棄てるよりはまし、というより、棄てなくて済む、それが「ブック・オフ」に本を売りに行く読者の動機なのではないだろうか。

 実は、棄てたっていいのである。読み終わり満足を得た瞬間、本という商品の享受は終了している。何度も読み返したいと思うほど「溺愛」してしまった本、繰り返し参照すべき情報が載っている本は、そう多くない。それ以外の、限りある書棚を埋めて埃を積もらせていくだけの本は、棄ててしまっても何の損もないはずなのだ。それでも、何故か、本は棄てられないという人が多い。

 「図書館に『ブック・オフ』の役目を一部担ってもらうこと」という前回の締めの言葉は、こうした状況を背景にしている。別に何がなんでも「ブック・オフ」を駆逐したい、いわばその補給路を断つための作戦、というわけではない。ただ、本を棄てられない、という読者の気持ち、実はぼく自身も共有しているその思いを、例えば図書館に利用してもらう、あるいはそうした読者が図書館を利用する方途もまたあるのではないか、そしてそこには「ブック・オフ」に売りにいくのとは違ったメリットが、生じうるのではないか、と思うのである。

 図書館のサイトで、読みたい本を検索してみる。人気の高い本だと、「貸出中」であり、かつ何人もの予約数があったりする。(「東京都の図書館蔵書横断検索」のサイトで見ると、「半落ち」は22日現在、豊島区では8館で9冊の蔵書がすべて貸出中で、予約者が144名いる。)そうした時、どうしても読みたければ、書店で買う人もあろう。少なくともぼくはそうなる。そこで逡巡するとすればその理由は、経済的な問題というよりも、読んだあとのことである。そもそもぼくが図書館を頻繁に利用するようになったのは、読んだ本が手許に残らないからである。もしも、読んだあとで図書館に引き取ってもらえれば、その逡巡はなくなる。読み返したければ改めて借りればよい。それまでの間、無駄にわが家の狭い書棚を埋めることはなくなる。図書館を利用することによって「巨大な書庫を手に入れたようなものだ。」と書いた所以である。

 少なくともこうしたケースでは、利用者が自分で買った本を、読後に図書館が引き取るという策は、図書館にとっても有意義であろう。現に何人もの予約者が待ち構えているのである。引き取った本は、すぐに貸し出しに回せる。いつ誰が借りるか判らない本を購入したり、寄付として受け取ったりすることと比べて、こんなに効率のいいことはない。いい悪いは別にして、貸出率が図書館の評価のひとつと指標となっているのである。待っている予約者にとっても、それだけ早く順番が回ってくるわけだから、ありがたい。

すぐに読めないが故に書店で本を購入する図書館利用者は、そもそも「読んだ本を手許に残さない」ことを第一義としているのだから、図書館に引き取ってもらうときに、 さして高額の対価を要求することはない。有償が難しければ、後々使える「貸出優先権」でもよいかもしれない。それでも、図書館利用者には充分嬉しい。それで済めば、図書館側としては、利用希望者が殺到している資料について、厳しさを増す予算を切り崩すことなく、手に入れることができる。さっき言ったように、他の予約者にとっても嬉しい話で、その提供者に「貸出優先権」を与えても、誰も文句は言うまい。

 「三方一両得」ではないだろうか。


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 村上春樹の「海辺のカフカ」の最大の功績は、「私立図書館」という存在をクローズアップしたことではないかと思う。主人公田村カフカが物語の中盤で住みつき、さまざまな出来事に遭遇する高松市郊外の私立図書館(「甲村記念図書館」)は、かつて文人たちを援助した篤志家によって建設されたもので、多くの文人が訪れ、滞在したとされる。小説の重要な舞台のモデルとなった私立図書館がどこか、ということがファンの間で話題になっているとも聞くが、作者じしんがモデルの実在を否定しているように、そんなことはどうでもよいことだ。重要なのは、私立図書館を建設するような篤志家が文人を遇し、そのことが文人たちの生を支えた、あえて古びた言い方をすればその「単純再生産」を保障したということなのである。いわばパトロニズムこそが文学の生産の場を支えてきたのである。

 ことは文学の世界に留まらない。マキャベリもライプニッツもデカルトも、王族や貴族の庇護を受けながら、すなわちそれぞれの庇護者のパトロニズムのもとに、著作を世に遺した。大学という存在を、相対的な経済的余裕を持つ人々によるその子弟を媒介としたパトロニズムの場と見れば、カントやヘーゲルもまた然りである。そしてそのことは、現在著者として本という商品の生産者の立場にいる多くの人々にも当てはまる。

 書店人としてのぼくは、本を売るという行為が本をつくるという作業の一部をなすということ、あるいはその最終仕上げであるということを繰り返し主張してきた。売ることの重要性を掲げたその主張は今でも変わりはないが、一方そうした見方だけでは、本を販売したところで流れが途切れてしまうことにも気がついた。ある本を手にし読んだ読者が、その著者に新しい著書を所望することによって、流れは円環として閉じる。そして「拡大再生産」を可能にする。その段階で読者はすでにパトロンであると言えはしまいか。否、新しい著書を所望するに到らなかった場合、すなわち不幸にも買った本が面白くなかった場合でも、買った段階で、読者は不本意にもその著者のパトロンになってしまったと言えるのではないだろうか?読者は購入した本を、いかなる仕方でも「消費」することはできないのだから。

 だとすれば流通過程にいるぼくたち書店人も含めて、「本をつくる」ことを生業としているすべての人たちに必要なのは、読者というパトロンに対する、しかるべき姿勢・態度であるといえまいか。読者がパトロンたることに見合うと感じるだけの作品を読者に提供することが最重要には違いないが、時にはパトロンとまさに向かい合って頭を下げること、直接言葉を交わすことも必要だろう。先に挙げた著者たちも明らかにそうしてきたのである。例えば書物の冒頭に措かれた「献辞」がまさにそうである。

 今風の方法論としては、サイン会や講演、マスコミに露出することなど、読者の前に姿を曝すことである。著者みずからが自著を売るための努力をする、「そんな時代になったのだ…」という嘆息を聞くかもしれないが、決して「そんな時代になった」のではなく、そもそも本を書くということがそうした努力を要請しているのだ。本を書くという行為は、読まれることによってはじめて完結するからだ。そうした観点から見れば、飯島愛の本がベストセラーになったり、北野武や松本人志の本が軒並みよく売れるのは、当然なのである。彼らは、あらかじめ大衆にみずからの姿を曝しているからだ。著書を刊行したときには、すでに大衆のパトロニズムを獲得してしまっているのである。

 パトロニズムの観点に立った時、文芸家協会VS図書館という図式で繰り広げられている「公共貸与権」についての議論にどうしても抱いてしまう違和感を、うまく説明できるようにも思われる。

 作家は図書館がそもそも自らの著書を図書館利用者に貸与することによって、みずからの著作権が侵害されているという。これは、平べったく言うと、借りることができなかった図書館利用者は本を購入したであろうから、その際に支払われた代金の一部を印税として手に入れる権利を侵害された、という主張である。それに対して、図書館側は、借りることが出来なかった利用者が本を購入するとは限らない、むしろ図書館利用者こそ本を購入する習慣も併せ持っていると主張する。

 図書館利用者であるぼくから見れば、図書館側の主張に分がある。ただしそれはあくまで個人的な事情であるから、とりあえず措く。そもそも違和感は、こういった議論が起こってくることそのものにあるからだ。あえて単純化の謗りを恐れずにいえば、作家が自著を読まれることの第一義を、著作権の対価を得ることに置いていることに対する違和感なのだ。

 何も清貧の作家が偉いと主張したい訳ではない。印税で暮らすことを卑しむつもりもない。ベストセラー作家が優雅な生活を送っていたとしても、それを妬む気持ちはまったくない。著作権を尊重することにおいても、人後には落ちないつもりだ。ただ、自分が書いたものを誰かに読んでもらいたいという著者の気持ちは、印税を得たいという気持ちとは、(矛盾するわけではないにせよ)決して重ならないように思うのである。だからこそパトロニズムが成立するのではないか。著作権と生存権(具体的には印税収入)を直結し、それを死守しようとするような作家の発言は、煎じ詰めれば「読みたければ、買え。」ということである。そうした態度は、パトロンに対するものとしては、決してふさわしくない。

 「すべての書物は、それが出来上がった後には、著者から離れた独立の運命をもって存在するに至る。著者は彼の書の享けるあらゆる運命を愛すべきである。私は私の書物が欲するままに読まれ、思うままに理解されることに満足しよう。」「パスカルに於ける人間の研究」の「序」で、三木清はこう言っている。この文章において三木は、「私の書物」が売れることによって印税が入ってくることとは別のことを、期待しているのだと思う。


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 前回、著者と読者の関係は、パトロニズムとして捉えるべきである、と書いた。そうした場合の「著者」とはいかなる存在であるか。小林よしのりとの共著である「知のハルマゲドン」で、浅羽通明は次のように発言している。

 「モノを書くとか芸術に従事するのは、余裕を持っている人が旦那芸として遊びでやるか、専業でやる人はいわばたいこもちだった。ではなぜ昔は表現する人間が下だったかというと、これは私のこじつけですが、人を言葉によって日常的に傷つけることが許されていて、それを仕事にしている品性が卑しい人間だから賤民だったのではないかと思うわけです。」

 浅羽は、「モノを書くとか芸術に従事する」ことを軽視したり軽蔑したりしているわけでは、まったくない。「賤民」という言葉は、浅羽にとって両義性を持つ。同じ本の中で、浅羽は次のようにも言っている。

 「網野善彦氏や阿部謹也氏の著書の愛読者でしたから、中世の被差別民が蔑視されると同時に畏敬されていた両義的な存在であった史実を知っていた。だから『こわい』と同時に、中世の非農耕民の血をひく『凄い』『かっこいい』連中と言う憧れもあったのですね。」

 だとすれば、「モノを書く」という行為に携わる「著者」とは、敢えて自らを「賤民」と見なすことによって、「人を言葉によって日常的に傷つける」自由を得た「選民」たらしめた存在というべきではないだろうか。即ち共同体の外に出ることによって、言い換えれば共同体内での生の保証と引き換えに、発言の自由を得た存在なのではないだろうか。

 こうした見方は、「公共性の条件」で「公界」について語る大澤真幸の言説とも共振する。「公界」とは、「遊行民」=「賤民」(=「選民」?)の住む世界である。

 「公界についての事実がわれわれに教えているのは、次のことである。すなわち、社会的な関係の解除そのものが、人びとを結合する関係の様式になりうるということ。公界において人びとを結び付けているのは、何らかの積極的な要因―性質や利害や価値観等―の共有ではない。公界の中で人びとを結び付ける紐帯があるとすれば、それは、まさに、任意の共同体的な紐帯から排除されているということ、つまり紐帯自身を切断されているということ、それ以外にはありえない。」(「思想」200212月号)

 「経済」とは「経世済民」の略語であるから、「任意の共同体的な紐帯から排除されている」ことを「経済共同体から排除されている」ことと解し、それは即ち「共同体内での生の保証から除外されている」ことであるといっても、間違いではあるまい。第一の生産者である著者がそうした状況にある以上、その生産物である書物もまた、「経済」的な原理から逸脱しても当然であろう。突飛なようだが、「再販制」の根拠は、実はここにあるのかもしれない。「再販制」は他のあらゆる商品について経済合理性のもとでは否定された制度であり、著作物のみに許された特権なのである。そこで作動している原理は、経済合理性の「交換」の原理ではなく、「贈与」の原理なのかもしれない。

 もちろん、その「贈与」は相互的なものであり、著者は読者に作品を通して喜びを、読者は著者に購入を通して(印税)収入を与える。ただし、それは(多くの場合その形をとるにせよ)一つの形式に過ぎず、そもそも「贈与」は、返礼の形式を決定して要求できるものではない。もちろん、「等価交換」を要求できるものではない。(そうなると、そもそも「贈与」ではなくなってしまう。)

 著者が、図書館で自著を借りて読んだ読者に対価未払いを訴える状況(図書館が本を無償で貸すことが自らの生存権を危うくする、という主張は、つまるところ、論理的にはこのような状況であるといえる)に違和感を感じるのは、そのためなのだ。それは、書物を媒介とする関係性において、「等価交換」を原則とする「経済合理性」を第一とすることへの違和感なのである。

 「財を成す」ことこそ経済的行為の典型であろう。書籍に関して「財を成す」といえば、蔵書ということである。作家三田誠広は、次のようにいう。

 「私の場合、自分が読んだ本は、一種のインデックスとして保存しておく。自分がこれまで読んだ本が、本棚に並んでいれば、それがわたしの生きていたことの軌跡であり、わたしというものの存在証明にもなるからだ。多くの読書好きの読者が、同じような気持ちで、自分の本棚を整備してきたのではないか思う。

 しかしいまやそれは旧いタイプの読者というしかないだろう。現代の読者は、本を所有することにこだわらない。犯人がわかり、ゴシップを仕入れ、評判の本を自分なりに評価したあとは、ゴミとして捨てるか、ブックオフ等の古書店で売ってしまう。最初からブックオフで買って、汚さないように読んでまたブックオフに売るという読者も少なくないだろう。」

三田は、あきらかに書籍について「財を成すこと」、すなわち購入した書籍で自らの本棚を築き上げることに、大いなる価値を置いている。「ゴミとして捨て」たり、「ブックオフ等の古書店で売ってしま」ったりする行為は、許されない。「自分がこれまで読んだ本が、本棚に並んでい」ることこそ、自らの「生きていたことの軌跡」なのだから。

 確かに「論座」の巻頭連載をはじめとして、著名人の「本棚」を披露することが、雑誌やムックの人気企画であることは否定しない。即ち、読み手の側にそうした嗜好があることは、事実である。しかし、ふつうの人の家の本棚を見たいとは、多くの人は思わないだろう。「著者の本棚を見たい」と思うことが、すでにパトロニズムの世界に足を踏み入れているのである。

再び浅羽通明のつぎの言葉を切りかえしたい。「各自がこの十余年の間、再読三読した本したい本をリストアップしてみようではないか。」(「思想家志願」)

 「各自がこの十余年の間、再読三読した本したい本」の並ぶ書棚こそ、「わたしの生きていたことの軌跡であり、わたしというものの存在証明」ではないだろうか。であれば、おそらく各自の書棚は、さしたるスペースを取るまい。

 ただし、そうした書棚の成立のためにも、そこに収容されなかった本たちの行き場は必要である。そうした本たちの行き場として、図書館やインターネット空間がある。そのような状況こそ、読者にとって理想的なのではないだろうか。


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 512日、図書館情報誌「ず・ぼん」の座談会に参加した。「ず・ぼん」は以前から気になっていた媒体であり、図書館について言及しはじめたのをきっかけに読みはじめていたから、座談会に呼んでもらったことは、大変光栄だった。

 座談会の詳細については、秋口には出る予定の「ず・ぼん」第9号に譲るべきだろうが、座談会に臨んでの、ぼく自身のスタンスだけは述べておきたい。

 テーマは図書館の「業務委託」であった。TRCをはじめ、数社が参入して図書館の業務の一部の外注を請け負っている。東京都でも一部の区がカウンター業務などを外注しはじめているという。そのこと自体の是非と、外注によってもたらされる問題点が、議論の中心だった。

 書店人としてというよりむしろ利用者としての、ぼくの意見は次のとおりだ。

 まず、外注業者が派遣してくる労働者と「正規」職員との質の較差は、決してアプリオリなものではなく、個々の資質の差であると思う。ぼくの職場で新規採用やアルバイトの面接をしていても、司書の資格を持っていて、あるいは取りつつあって、本当は図書館で働きたいという情熱をもった若い人が多い。行政が司書職の正規採用をしていない現状にあっては、彼ら彼女らが自らの情熱を傾ける場所を外注業者が提供できるのであれば、それはそれで意義のあることではないか。

 また、図書館の側の人たちは、ひたすら「業務委託」によるサービスの低下を憂えるが、そもそも現時点でぼくが最も求めたいサービスは、開館時間を延長し、休館日を減らすことである。特にぼくらのような小売業の人間にとっては、休みは土日ではなく平日のことが多いし、月曜日であることも多いのだ。ただ、そのことによって職員の人たちにより過酷な労働条件を要求することはできない。だとしたら、その部分は「外注」してもらっても一向にかまわない。万が一、「本のことをよく知らない」人が窓口にいたって、ぼくらはそれほど困らない。少なくとも、休館日を減らしてもらえれば、メリットはデメリットを大きく上回る。

 「業務委託」について、最も避けるべき発想は、例えばカウンター業務ならいいが書庫整理は駄目、選書は正規職員の領分という風に、業務を分割して考えることである。どの業務分野にも、マニュアル通りに作業できる部分と、高度な判断能力が問われる部分があるからだ。さまざまな業務それぞれに、自らの判断に責任を取れる存在は必要なのだ。そうした責任者が存在してはじめて、「末端」は安心して業務に励める。責任の所在が曖昧な部署が存在していては、組織全体がおかしくなるのである。逆に、責任の所在さえはっきりしていれば、「業務委託」に際して予想されるほとんどの問題は、解決できると思う。いいかえれば、館全体はもとより、どんな部署も決して「丸投げ」してはいけないのだ。

 座談会からほどなく、5月16日に、山中湖村立図書館「情報創造館」(建設中)館長の小林是綱氏がジュンク堂書店池袋本店を訪れてくださった。「住民の手で作る図書館は、住民の目で選んだ本から」という発想で、交通や食費にかかる経費自己負担のツアーを組み、今回はわれわれの店と紀伊国屋書店新宿南店を訪問したということだった(朝日新聞5月16日山梨版に報道)。その発想には大いに共感し、店を訪れていただいたことは、大変光栄に思う。三回前のこの欄でぼくが提案した「利用者が自分で買った本を、読後に図書館が引き取るという策」も、何とか利用者の意向を図書館の蔵書に反映させたいという思いからだったからだ。「情報創造館」の発想は、そうしたぼくの隠微な策よりずっとスケールの大きなものである。図書館をめぐる多くの言説に欠けているとぼくが言った「利用者の視点」を、見事なまでにあからさまに前面に押し出す発想なのだ。(「年中無休、24時間貸し出し」の構想さえあるという。)

 山中湖村立図書館「情報創造館」の来年開館に向けた動きに注目し、何か役立つことがあれば是非協力したいと思っている。


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 .吉見俊哉氏の「カルチュラル・ターン」は、カルチュラル・スタディーズの意味と意義を再認識させてくれた。「カルチュラル・ターン」という概念装置そのものの無理を論じた書評を書いたりもしたが、総じて「カルチュラル・スタディーズ」の成果の豊穣さを理解して欲しいという著者の思いが、痛切に伝わってくる。少なくとも「カルチュラル・スタディーズ」が、「カルスタ」と揶揄的に述べられる(読みもせずに差別される)ようなものでは決してないということがよく分かる。

 書店人としては、特に終わり近くの次の部分に強く共振した。 

 「もともと英国のカルチュラル・スタディーズが、コミュニティでの労働者階級を主体とした成人教育や高校までの英語教師たちの教育実践を背景に発展してきたものであり、たとえば若きスチュアート・ホールも、初期のカルチュラル・スタディーズの実践を高校教師としての授業のなかでためしていたことや、七〇年代以来、英国やカナダではメディア・リテラシー教育が学校教育に根づいてきたことを念頭に置くならば、それらが八〇年代以降もさらに広がりと厚みを増していったのではないかと想像される。」(358頁)

 もちろん、翻って日本の高校教育や如何、である。

 7月28日(月)に「学校司書会」で行なった講演のレジュメに、「書店→大学生協→中高図書館」という項目を入れた。大型書店の存在も、そこにやって来てくれる読者が支えてくれるのだということを冷静に悟れば、そうした読者を「生産」してくれる学校現場を看過できるはずはない、そこに遡及せざるを得ないという思いが矢印の意味である。

 そんな「読者」の「生産」に寄与してくれそうな本に出会った。菅野仁著「ジンメル・つながりの哲学」(NHKブックス) である。この本は、ジンメルを媒介に、社会をあくまで自らの「実存」との関わりのなかで見ようとする、とてもわかりやすく魅力的な学問への案内書である。特に高校生諸君に読んで欲しいなと思った。

 思い起こせば京都店時代、「倫理社会」の夏休みの宿題の課題として、プラトンの「ソクラテスの弁明」やキルケゴールの「死にいたる病」を求められた時の、それを課題とした教師に対する憤りがある。どちらも素晴らしい古典だとは思うが、いきなり読まされた高校生にしてみれば、哲学思想を「わけのわからない」世界として忌避したくなるような、余りに安易な選書ではないか。「他の本でもいいんです。」と言われるたびに、「哲学入門」(三木清=岩波新書)を薦めていたが、竹田青嗣の「自分を知るための哲学入門」が出たあとは、一貫してこれを薦めた。「ジンメル・つながりの哲学」は同じような薦め方をしたい本である。

 「書店→大学生協→中高図書館」という項目が語っている通り、ぼくは大学生協との協働も意識している。大学生協書籍部は、「生産」された「読者」を育て、大型書店へと送り込んでくれる媒介だからである。

 「学校司書会」での講演に先立って、7月23日(水)に大学生協事業連合で話をさせていただいた。その際、人文会が5年ごとに出している「人文書のすすめ」の第三弾の基本書目の選定作業の一部(哲学・思想)を依頼されていたぼくは、第二弾のリストから取捨選択してもらうという方法で、大学生協の現場で働いている人たちに意見を求めた。

 元来本好きの彼らは、ああだこうだと議論しながら、削除・追加の作業をしばらく続けてくれたが、分担して作業に当たっていた三つのテーブルで、相前後して作業が中止された。このジャンルでこの本は欠かせないよな、という「基本書」と、実際に大学生協書籍部の小さな棚スペースに厳選して並べて実効性のある(売れる)本との乖離が、余りに大きかったからだ。

 たとえば日本実業出版社やかんき出版が出しているような入門書、それらをぼくなんかは最初に「基本書目」から外してしまうのだが、大学生協書籍部では、そうした本こそ、売れ筋なのである。そしてそのことは、「読者」の「生産」を大学生協書籍部にも頼っているぼくらとしても、看過すべきではない。

 人文会の「基本書目」は、200300坪くらいの書店にも必備して欲しい本という基準だと聞いたが、だとすれば、「基本書目」というよりも、「誘いの為の書目」にした方が、実効性が高いのではないか、と思った。その中には、多少怪しげな(?)「入門書」があってもいいのかもしれない。

 「次のコマの試験、『教科書持ち込み可』なんです。この本、貸してくれませんか?」という学生が、時々大学生協書籍部には来るという。「ネタ」じゃないかと思うこの話、どうやら事実らしい。


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 新評論の「シャルラタン 歴史と諧謔の仕掛人たち」(蔵持不三也著)を読んだ。

 「シャルラタン」とは、鳴り物入りの大仰な口上と共に市場に登場し、言葉の魔力で聴衆に「万能薬」を売りつける、「いかさま薬売り」である。自ら毒をあおり、或いは毒蛇に腕を噛ませ、「万能薬」の効能を証明するパフォーマンスも付随する。(日本伝統の「蝦蟇の油売り」に近しいといえるか。)

 そうした存在は、(「薬売り」という部分で)医学の世界でも、(一種の興業という部分で)演劇の世界でも、典型的な「異端」である。だが、だからこそ同時に、「異端」である「シャルラタン」は、それぞれの世界で、たとえば大学の「お墨付き」を貰った医師、権力者に自らの特権を守るための禁令を出させる国王劇団といった「正統」を確立する役割を果すのである。そしてその役割は、皮肉にも自らの存在を危うくするのであるが、一方で民衆的な眼差しの行方は、必ずしも権力側のそれと重なり合うとは限らない。だからこそ、民間療法や健康法の中に、今日でも「シャルラタニズム」は棲息しているのだ。

 「なるほど少女の父親はこの怪しげな飲み物を服して治ったのかもしれない。だが、それを真に現実化したのは、おそらくこうしたテクストを生み出し、そこから快癒への回路を導き出した集団的なイマジネールの方だったはずだ。民間療法とは、畢竟そうしたメカニズムに立脚しているのではないか。だとすれば、このイマジネールとは、すでに指摘しておいたシャルラタンのそれとほとんど択ぶところがないということになる。」

 「癒すこと」が出来さえすれば、「正統」か「異端」かは、問題ではない。むしろ民衆が「異端」の方に魅かれていたということは、モリエールを頂点とするフランス喜劇の「正統」の中で、「医者の滑稽にして吝嗇ないし粗忽な役柄は、それを見る観客に笑いを引き起こす仕掛けともなっていた」ことからも、充分に推測される。

 シャルラタンたちが「正統」によるあまたの禁令にもかかわらずに生き延びたという事実それ自体が、民衆の眼差しと共振していたことを実証していると言えるかもしれない。

 面白いのは、十九世紀初頭になると、シャルラタンたちが「かつての客寄せ芝居に代えて、ビラ、つまり簡単な文字を配した宣伝チラシの類を配るようになっていた」ということだ。彼らは、「顧客開発のため、識字層の拡大と軌を一にする新たな媒体を用いて、今日的な広告へとつながる新たな戦略をいち早く導入したのである。」

 そうした文字媒体の重視にも親近感を覚えながら、シャルラタンたちの批判精神やしたたかさについて読み進むうちに、いつしかぼくは、出版物の販売という仕事のなかで、自分もよき「シャルラタン」でありたい、という気持ちを抱き始めていた。ひとつには出版物がつねに時代や情況に対して批判精神を持っているべき商品であるからであり、ひとつにはそうした商品を販売するという営為には、つねにしたたかさが求められるからである。そして、大仰に言えば、出版物という商品が「魂の薬」でもありうるからである。

 とはいえ、ぼくたちは書店の店頭で鳴り物入りの大仰な口上を謳いあげるわけにはいかない(※)。「書評」がかろうじてそれに近いかもしれないが、本来的には書店人の仕事ではないし、うるさくポップを飾り立てるのも、ぼくの趣味ではない。

 「レイアウト」こそ、われわれ書店人にとって「シャルラタンの口上」にあたるのではないか。入荷した商品を、読者にとって腑に落ち、あるいは発見があるかたちで棚に並べていく。その作業のなかに書店人の知識やセンスが反映されれば、よき「シャルラタン」の口上やパフォーマンスに通じる仕事が出来るのではないだろうか。いずれの場合も、目的は商品の販売である。

 極端にいえば「レイアウト」こそ「(環境)情報」のすべてだ、と言うのが、「レイアウトの法則」(春秋社)における佐々木正人である。

 佐々木によれば、動物を包囲している出来事とは、複合するレイアウトの変形にほかならない。すべての動物は、空と地面とが作る大規模な光のレイアウトや、接近してくる動物表面の肌理の拡大など視覚の情報を共有し、その行動を制御するために利用している。そもそも知覚とは、レイアウトの利用にほかならないのだ。レイアウトの変化こそが、ゴールまでの経路で行為をガイドし、レイアウトがあること、レイアウトが変更していくことによって行為は動かされている。レイアウトと行為とは循環している。

 そして佐々木は、「人間なんて偉そうにしていますが、三種の修正をサーフェス(表面)に続けているだけ」という。第一にサーフェスのレイアウトに利用できる意味を貪欲に探す、第二にサーフェスのレイアウトを修整する、そしてもともとサーフェスになかったものをサーフェスに刻む、それが「三種の修正」なのであるが、「文字を書く、書物を作るなんて高等だとされていることも、サーフェスの三番目の変形」に過ぎないのである。

 ならば、出版物を書店の棚にレイアウトしていくという作業は、「サーフェスの三番目の変形」の延長であり、読者に新たな「アフォーダンス(環境情報)」を提供する仕事と言えるだろう。読者の書店内の彷徨を書棚のレイアウトの変化がガイドし、その彷徨じたいが心地よいものであることによって読者が数多くの出版物と出会い、購入するという行為(それはほんの少しだがレイアウトを変化させる行為でもある=「レイアウトと行為とは循環している」)に導くことが出来たときに、そのレイアウトは、よき「シャルラタン的口上」に匹敵する仕事と言えるのではないだろうか。

(※)書店の店頭でも、例外的な状況はある。8月30日、ジュンク堂池袋本店4階喫茶での「トークセッション」で、編集工学研究所所長の松岡正剛氏は、渋い声、淀み無くユーモアあふれる話術で60名近い聴衆を魅了し、結果的に自らの著書「山水思想 もうひとつの日本」(五月書房 本体4700円)を15冊販売した。見事な「シャルラタン」ぶりといえる。


(32)

 先月9月は、特に図書館づいていた。「図書館の学校」、「郡山中央図書館」での講演のほか、「ず・ぼん」の編集委員との対談もあった。20日には菅谷明子氏の「未来をつくる図書館」(岩波新書)が出たので早速読んで書評を書いた。前々回やその前のこの欄でも紹介したように、今年は既に「学校司書の会」で話したり、「ず・ぼん」の座談会に出てもいる。昨年末には国立国会図書館でも話をした。

 こうして図書館の世界と繋がりができてきたのは、昨年上梓した「劇場としての書店」の「あとがき」部分で図書館について言及し、あるいはこの欄で図書館について論じてきたからであろう。いわば、まずぼくから意図的に発信した訳で、図書館の側の人たちがそれに応答してくれたのである。発信した理由は、図書館ユーザーでもあるぼくが、多くの人に本を読んでもらうことを仕事として共有する書店と図書館が、もっともっと共闘して行く必要があると感じたからだ。

 そして図書館についての書籍や論文を読み、シンポジウムに参加したりする中で、「公共貸与権」や「業務委託」など、今日の図書館がかかえる具体的な問題に出会った。このコラムでも取り上げ、論じてきたとおりである。それらは、「解」を求めるのが困難な連立方程式の様相を呈している。

 「未来をつくる図書館」を読んで、その連立方程式を解くためのヒントを得ることが出来たような気がした。あるいは、「解」を求めるために必要な、発想の、あるいは考え方の枠組み(パラダイム)の転換を示されたといったほうがいいかもしれない。

 「未来をつくる図書館」は、菅谷氏による、最新のニューヨーク公共図書館レポートである。ニューヨーク公共図書館は、専門テーマに特化した資料提供を行なう4つの研究図書館と、地域密着サービスを行なう85の地域分館から成る。豊富な資料による世界中の研究者へのサービスと、ビジネス支援はもとより、アーティストたちの情報アクセスへの支援、医療情報や「9.11テロ」直後の情報提供など、地域住民への徹底したサービスの双方を実現している。

 カーネギーをはじめ篤志家の寄付が支えてきたことも事実だ。だが、それ以上に、小口の寄付の獲得、イベントや講座の開催が、すなわち図書館職員による積極的な資金集めが、図書館の運営を支えているのだ。

 「公共図書館」という名称そのものが、誤解を生じさせるかも知れない。「公共」という言葉の持つニュアンスが、日本とアメリカでは決定的に違っているからだ。日本で「公共」というと、「お役所の手によるもの」との印象が強いからだ。アメリカでは公益を担うのは市民であるとの意識が強い。だからこそ、「地域でどんな情報が必要とされているかを最も熟知している立場にある」司書が活躍できるのだ。

 ことこの点に限れば、日本はアメリカに大いに学ぶべきではないだろうか。そのことが、連立方程式を解くヒントとなるのではないか、と思う。

 例えば「業務委託」について言えば、つまりは行政が図書館運営をやりきれないということであろう。ならば、それを逆手にとって、NPO法人をきちんと作り、請け負うことで、図書館を「お役所」から「市民」に奪い返すチャンスだと思えばいいのだ。現在図書館で働いている人たちの身分保障の問題も、それぞれの技術と思い入れに応じて新しい組織に迎え入れる方策を考えれば済む、「技術的」な問題である。そのことで生じる手間暇は、図書館を「お役所」から「市民」に奪い返すことが出来たなら、すなわち真の「市民の図書館」を誕生させることが出来たならば、充分に見合うものであると言えるだろう。

 この「解」は、連立するもう一方の方程式、「公共貸与権」の問題も満たすことができると思う。図書館を「お役所」の手から離せば、同時にさまざまな拘束から自由になると思うからだ。その時図書館は、地域住民と密接に結びつき、集客力の高い「小屋」として、多くの書き手の講演を企画し、パトロン獲得に手を貸せばよい。同時にそうした興業によって図書館自体も運営のための原資を獲ればよい。講演者の著書の販売など、私的な「小屋」では、当たり前のことである。「役所」直営ゆえに拘束があったのだとしたら、「役所」が図書館を手放してくれることは、願ったり叶ったりなのである。

 このような方向で図書館の未来を考えたほうが、逼迫する地方財政から予算をひねり出し、図書館と著作権者の間で分配をせめぎ合うという構図よりも、ずっと展望が開けてくると考えるが、如何?

ここまで腹が据われば、「未来をつくる図書館」で報告されるニューヨーク公共図書館の理念と実践を、多いに参考にすることができる。篤志家の多額な寄付金や、図書館の経済的な自立を保障する即効性のある企画を、即座に求めることは不可能かもしれない。しかし、「公共」=「お役所の手によるもの」という図式が崩れ、公益を担うのは市民であるとの意識が芽生えた時、たとえばぼくがかつて本コラムで提唱した、「利用者が自分で買った本を、読後に図書館が引き取る」という提案が、ささやかながらも誰もが参画しやすい方策として、実効性と可能性を帯びてくるのではないだろうか。

 「お上」が経済的にも人的にも図書館の直営に音を上げている今、ぼくらに求められているのは、図書館を真に「市民の図書館」としていくしたたかさなのである。図書館のピンチが叫ばれる今こそ、実は絶好のチャンスなのだ。 


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 1111日(火)竹内敏晴氏、12日(水)石井正之氏と、ぼくが担当するトーセッションが二夜連続であった。両日とも手話通訳の方に来ていただいた。もちろん、聴覚障害者のお客様の参加があったからだ。

 経緯はこうである。10 26日(日)の夜、トークセッションの受付を担当しているサービスコーナーから内線があり、「11日と12日のトーク、手話通訳を付けていただけるなら参加したいというお客様がお見えなのですが…」と告げられた。最初虚をつかれたぼくは程なくハッと思い当たり、すぐにサービスコーナーに向かった。予想通り、そのお客様は、その日のトークセッションに参加されていた、聴覚障害を持つTさんだった。

 その日のトークは、講談社ノンフィクション賞を取った「こんな夜更けにバナナかよ」(渡辺一史著 北海道新聞社)をめぐてのものだった。開演前に会場である四階喫茶にいたぼくは、Tさんの存在に気づき、担当者から 講師の手配で手話通訳の方も来られていることを知った。その時のぼくは、「なるほど、テーマがテーマだけにそういうこともあるのだな。」という程度の認識だった。サービスコーナーからの内線にハッとしたのはそのためである。その日の状況が、約二週間後に自分が企画しているトークセッションにも生じうるということを想像もしていなかった不明を恥じたのである。

 竹内氏はほぼ成人するまで難聴者として苦しみ、言葉を自由に操れるようになったのは40歳を過ぎてから、という演出家である。97年に「顔面漂流記」で「顔にアザのあるジャーナリスト」としてデビューした石井氏の今回のテーマとなった本は「肉体不平等」だ。聴覚障害を持つTさんが何としても「聞き」たい、と思うのは、当然であった。手話の出来ないぼくは、Tさんと筆談で「会話」しながら、何とか努力してご参加いただけるようにしたい、と約束した。

 さっそく、翌日からいくつかの方面に助力を依頼し、竹内さんの伝手で紹介された通訳者の方に両日ともお願いすることができた。Tさんへの連絡はEメールで行ない、もちろんTさんは両日とも参加下さった。終了後「参加できてとても有意義だった」という内容の感謝のメールを下さり、「これからも参加したい企画があれば、無理をお願いしたい」と書かれていた。ぼくは「できるかぎり努力するので、遠慮なく申し出て下さい」と返信した。

 図書館をめぐって「ず・ぼん」と関わりができたことは前に書いたが、その発行元であるポット出版から、「たったひとりのクレオール」という本を献呈していただき、たまたま読んでいたのも不思議な縁だった。この本は、長年聴覚障害児・難聴児の教育に携わり、また思索を深めてきた上農正剛氏が論文や講演をまとめたものであり、そうした世界に余り縁のないぼくにも、極めて刺激的で示唆的な本であった。

 周囲の無理解や、皮肉にももっとも近しい人たちである親や医師、教師たちのいわば「善意」(実はエゴイズム)によって、聴覚障害児・者がいかに不利益を蒙ってきたかが、切々と語られる。教育実践者であると同時に哲学研究者である上農氏は、具体的な事例を掲げながらも声高な告発をするわけではなく、ことの本質を冷静に見極めようとする。もちろん、それは何よりも聴覚障害児・者への寄与を目指してのことである。

 たくさんの人に掛け値なしに薦めたい、新鮮な刺激に満ちたこの本は、読者一人ひとりに多くの発見をもたらし、新たな思考を促すと思われるが、書店人であるぼくにとって、特に重要に思われたのは、聴覚障害者にとって、「聴覚口語法」「書記日本語」「手話」が、全く別個の言語であり、(ぼくらが想像するように、たとえ「翻訳」のような形であれある種のリンクが張られているのではなく)それぞれの間は完全に寸断されている、という事実である。

 話題になった本の著者に来ていただいて話をしてもらう「トークセッション」という企画において、本と話は地続きである。内容的にそうであることはもちろん、本を書くという行為と、語るという行為、即ち書かれた表現と語られた表現は、地続きである。ぼくは、確かにそう思っていた。でなければ、著書をめぐって語って下さいと著者に依頼する「トークセッション」の企画自体が生まれない。

 しかし、明らかに聴覚障害者にとってはそうではない。「聴覚口語法」と「書記日本語」はふたつの別々の言語なのだ。聴覚障害者は「書記日本語」による書物には直接触れることが出来るが、その書物を巡る「トーク」に触れるためには、手話通訳者の介在が不可欠なのである。「トークセッション」における前述のエピソードが物語るのは、この単純な、しかし重要な事実なのだ。

 ぼくら書店人にとって特に重要なのは、直接触れることのできる書物という形態が、聴覚障害者にとって健聴者以上に重要だ、ということである。上農氏によれば、読書を通じてハンディキャップを乗り越え、「エリート」への道をたどった聴覚障害児も多いという。ただし、「多くは自分一人だけで没頭した読書や暗記型の勉強で身につけたもの」(「たったひとりのクレオール」419頁)でしかない経験や知識は、聴覚障害者「エリート」にとって新たな問題をもたらす。また、「書記日本語」に習熟することが、逆に「日本手話」の習得に弊害をもたらすということもあるらしい。(ここでは十分に紹介できないので、是非「たったひとりのクレオール」をお読み下さい。重ねて、推薦します。)

 しかし、「読書とは書かれた言葉を通して『他者』の思考と出会う体験であり、その意味で異文化理解への非常に重要な入り口」(同 220頁)であることに間違いはなく、「『他者』の思考と出会う体験」が人間にとって不可欠なものである以上、書物が聴覚障害者にとって健聴 者以上に重要だと言っても誤りではないのではないか、と思う。

 ならば、書店現場にもっと聴覚障害を持つお客様がいらしていても不思議ではない。そうではないのは、手話通訳を含めて、われわれ書店側に、そうしたお客様を迎える準備と構えがそもそも出来ていないからではないか。

 「トークセッション」での手話通訳の依頼。ほんの小さな出来事が、こんな反省にまで、ぼくを連れて来てくれた。

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© Akira    Fukushima
 2007/04
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