本屋とコンピュータ(34〜44)2004年
*07年3月に刊行した『希望の書店論』に収録された06年4月までのコラムを年次ごとにまとめました。

        福嶋 聡 (ジュンク堂 池袋店)

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 新しい年を迎え、年賀状の文面に今年の抱負などをしたためようとするが、書店人の仕事、ことさら新奇なアイデアが沸くわけでもなく、これまで同様一冊一冊の本を地道に読者に手渡していくほかない。これまた今更ながらであるが、ぼくらは「販売員」なのであるという基本的な事がらを決して忘れないでいよう、と思うばかりである。

 それに因んだ話題をひとつ。

 昨年この欄でも紹介した(第31回)「シャルラタン」(新評論)を、「SPA!」の「こだわり店員の大プッシュはこれだ」欄で取り上げた。数日後、長らく受け取ったこともなかったような可愛らしい封筒に収められた一通の手紙を受け取った。差出人のA.Y.さんという名前は、記憶にない。何だろうと思って開封してみると、「SPA!」でたまたまぼくの紹介記事を読んで「シャルラタン」を早速購入し読んでみたらとても素晴らしい本で、思わず夜を徹して読み通してしまった由。紹介したぼくに対する過分な感謝に満ちた「礼状」であった。

 自著や業界紙などに掲載された記事の感想をもらった事はあるが、書評や紹介記事への「礼状」は初めてである。いささか戸惑いながらも、「書店人冥利に尽きる」とも思い、記載されてあったアドレスにメールを送り、こちらからも感謝の気持ちを伝えた。

 すぐに返信があり、数度にわたってメールのやり取りをしたが、最初の手紙やメールを通じて、A.Y.さんがスーパーや百貨店の食料品売場で試食品を来店客に振る舞い、商品を販売する「マネキン」であること、それも用意された商品を必ず完売する凄腕の「スーパー・マネキン」であることを知った。同時に彼女が高校演劇の出身で劇団経験もあり、演技の研鑽を積みそれを現在の仕事に生かしていることも分かり、なるほど「シャルラタン」に共振してくれたのは当然だな、と得心した。

 初冬のある日、上京した彼女が来店してくれた。その時手渡された「お土産」の包みを開くと、彼女の著書が入っていた。「パワー・マネキン式デパ地下・スーパーマーケットの食料品完売マニュアル」(松田明著 文芸社 ISBN4-8355-6587-8)である。松田明とはA.Y.さんのペンネームである。

 ぼくは自著「劇場としての書店」を送った。数日後、「すごく共感して読み通した」というメールが届いた。少し遅れて、ぼくも「パワー・マネキン式・・・」を読んでみた。正直言って、最初はピンクと黄色のド派手なカバー・デザインと太字・大活字がやたらに多い本文のページ構成に少しばかりの抵抗があったのだが、読み進むうちにそんなことも忘れ、ぼくの方も大いなる共感を持って読み終えた。そこにはぼくが「劇場としての書店」第2幕で主張したことが、実に具体的に、屈託なく書かれている。全編に貫かれているのは、「販売員」としてのプロ意識、そして仕事に誇りと喜びを持とうとする積極的な姿勢である。この本に較べたらぼくの文章などまだまだ裃を来た文章で、いささか気恥ずかしい思いさえした。

 「お客さんの笑顔を見ると心が満たされていくのです。心が満たされることは快感だから(人間は快感を求める生き物だから)、パワー・マネキンは安いギャラでもがんばって働いてしまうのですよ。そして心が満たされているから、笑顔が本物の笑顔になる。そのことは、必ずお客さんに通じるし、楽しい気分は伝染するんです。」(P13 )「生まれて初めてこの仕事をしたときでさえ、『二年目です』と答えていました。それでまわりが安心するなら、それでいいのです。うそも方便です。(ただし、言ったからには必ずプロの仕事をすること!)」( P149 ) 「この手のハッタリをかますことに罪悪感、気後れを感じるタイプの人間は、おそらく販売業自体に向いていないのです。」(P150 )

 「パワー・マネキン式・・・」の本文の一部です。どうです。痛快でしょう。元気が出てくるでしょう。書店店頭を活気溢れた場にしたいと思っているみなさんには、是非ご一読をお薦めします。

 「どんなに舌を噛もうと、どんなに滑稽な売り込みをしようと、それは彼女にとっての真実なのだから、見ている人は決して馬鹿になんかしません。彼女の本気が、頑張りが、見ている人の胸を打つのです。本気になるためには、とにかく大きな声を出して、本当の汗をかくことです。大きな声を出すということそのものが、すでに『真実味』を伴ってくるからです。人は必死のときにしか、そんな大声は出さないからです。」(P217 )

 ぼくも「劇場としての書店」第2幕において、「ほんとう」であることがいかに大事かを、(まだ裃を着た文章だったかもしれないが)切々と訴えたつもりである。また、結果的に演劇部や劇団出身者・関係者をアルバイトとして雇い入れることが多かったということも書いたが、松田さんも、次のように自信を持って言い切る。

 「『腹式呼吸』、『滑舌』、『ユーモア』この三つは絶対に外せない条件なんです。」(P167 )「彼ら(都会の劇団員)にとって、一日中大声を出してもかまわない職場が与えられたというのは、無料でボイトレスタジオを貸してもらったのと同じです。お金を払ってでも大声を出したい、と思っている人間の集まりを、みすみす見逃す手はありません。」(P177 )

 確かに食料品売場と書店店頭は違う。書店の売場では、大声でお客様を呼び込むべき状況はほとんどない。しかし、問い合わせへの応答、棚の場所が分からず困っているお客様への声かけ、レジカウンターでの誘導など、お客様と言葉をかわす場面はいくらでもある。松田さんの「パワー・マネキン」のノウハウを翻訳して応用する余地は大いにあると思う。商品(食材)についての情報を書物やインターネットを駆使して調べ上げ、試食品に工夫を凝らしたり客の購入動機を生み出したりする彼女の「プロ意識」に満ちた姿勢は、特に学ぶべきところが大であろう。「買ってください、とお願いするのではなくて、『私はこんなことができますよ、こんな情報を持っていますよ、お教えしますから寄ってらっしゃい!』 というメッセージを発信するのです。」(P64 )

 彼女は、タイムサービスが嫌いだと言う。だから、売れ残りをタイムサービスに出す前に完売を目指す。「タイムサービスに頼るのって、『負け』確定ですよね?あれは売れ残りを捨て値で売りさばいているだけだから。だいたい、アタマ悪いじやないですが。売る方法が値下げしかないなんて!負けが確定してから本気出しても遅いですよ。」(P 135 )

 再販制のもと、書店現場に、タイムサービスはない。


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 村上龍の「13歳のハローワーク」(幻冬舎)がよく売れている。現代思想のジャンルでは、渋谷望の「魂の労働」(青土社)が話題となっている。長引く不況の影響で、誰もが仕事について、労働について見つめなおす必要を感じているのかもしれない。「13歳」にとっては、それは自らの将来について思い巡らす作業であり、すでに職業を持っている者にとっては自らの仕事を改めて見つめなおす作業であろう。それぞれが同じくらいに重く、困難な作業である。

 というわけで、ぼくはぼくの仕事=書店人を見つめなおそう。前回書いたように、『ぼくらは「販売員」なのであるという基本的な事がらを決して忘れないでいよう』というのがさしあたっての足場である。販売員の仕事とは、商品を客に売ることである。客なくして販売員の仕事はない、即ち販売員は存在し得ない。それゆえ販売員の本質は客にある、とヘーゲルのように言わなくとも、販売員が客との関係性の一項としてのみあるということは自明である。

 販売員もまたまぎれもなく労働者であるが、客との関係性を踏まえて考えれば、フォーディズムの時代、「モダンタイムズ」でチャップリンが描いた機械とのみ格闘する労働者、言い換えれば機械を介在し究極的には経営者とのみ相対する労働者とは、性格が違う。

 「産業労働者が自己の労働を、自己の感情とは切り離すことのできる〈商品〉として扱うのに対して、介護労働や感情労働に従事する者は、介護される側(顧客)との長期、短期的な信頼関係にコミットしているがゆえに、十全にその感情労働を商品化することができない。それゆえつねに、顧客に対する〈感情〉や〈配慮〉を優先させるか、それとも労働の〈商品化〉を優先させるかを決めかねる困難なポジションにあるといえる。」(「魂の労働」P30)渋谷は、介護労働を典型的な例に取り、生産中心的な社会から「脱工業(産業)社会」への転換が進行しつつある中での〈労働〉の変容に目を向ける。その際のキー概念である「感情労働」とは、ホックシールドの定義によれば「公に観察可能な表情と身体による表現を作り出すために感情を管理することを意味する。感情労働は賃金のために売られるものであり、それゆえ交換価値を有する。」(「管理される心」世界思想社)

 渋谷は、TQM(Total Quality Management)に依拠した「日本的経営」(その第一の特徴として「クォリティが顧客の要請への合致として定義される」)により、工場における産業労働者も〈感情労働者〉へといわば作り変えられたと看破し、「労使関係に顧客との関係が介在するため、感情労働に従事する者は、産業労働者のように、商品化されたものとして労働を自己からクールに切り離す態度や、労働条件をめぐって経営者とラディカルに対決するインセンティヴが削がれていく」(「魂の労働」P32)危険を指摘する。そこに権力による〈生〉の支配の新しいかつ強力なあり方を見て取るのだが、同時に「〈生〉に内在する豊かな壊乱的性質は権力の痛点を構成する」(同P43 )、すなわち権力の側の最大の弱点も見出すのである。

 ポストフォーディズムやネオリベラリズム、さらにはグローバリゼーションをも視野に収めた渋谷のスケールの大きな議論展開には大いに関心があるが、ここでは販売員としての書店人というテーマにとどまろう。

 顧客との関係が介護労働ほど密着・長時間ではないとはいえ、販売員である書店人も、〈感情労働者〉であることに違いはない。職場において、顧客と対峙した時、つねにしかるべき「表情と身体による表現を作り出すために感情を管理する」必要に迫られる。すべての販売員同様、顧客との関係は、買い手―売り手の関係として非対称性を持つからである。買い手の支払う購入代金には、販売員の付加価値が含まれており、それが販売員の賃金となる。購入代金の一部の代償として、買い手は売り手に相応のサービスを要求する。その中には「しかるべき表情と身体による表現」も、当然のこととして含まれているのである。顧客との関係そのものから発生する感情(たとえば顧客の横柄な態度やわがままな要求に対する反発)も、それとは直接関係のない原因による感情(たとえば上司への不満)も、顧客の前で表出する権利は、販売員にはないのである。販売員は「感情を管理」する必要があり、それゆえ〈感情労働者〉と呼ばれるのである。

 書店人の場合、非対称性はお金を支払う側―お金を受け取る側の非対称性にはとどまらない。本という商品についての知識においても、顧客の方が圧倒的に優位である場合がほとんどである。家電店で店員が製品の特長について顧客に説明しているような図は、書店においては極めて例外的な場面だ。

 そうした二重の劣位にもかかわらず販売現場で自らの喜びを表現すること(そのことが第一に求められているのだ―無愛想な応対、不満そうな態度は、何よりもクレームの対象になる)、しかもその喜びが「ほんとう」のものでなければならない(そうでない応対は「マニュアル的」だと、クレームの対象になる)ならば、そのための「感情の管理」、もっといえば「感情の創出」の仕事は、まさしく俳優のそれと同質である。俳優もまた、自らの職場である舞台に立った途端に、劇中での「役」を引き受ける=「役」の感情を創出することが、仕事であるからである。

 前回のコラムで紹介した「パワー・マネキン式デパ地下・スーパーマーケットの食料品完売マニュアル」の著者松田明さんも、演劇経験者であり、その経験を見事に仕事に生かしている。「どんな店員よりも現場を知り尽くし、桁違いの販売能力を持ち、常識的な仕入れ量ならどんな商品でも完売させることができる販売のプロ」である「パワー・マネキン」たることを自他共に認める彼女は、「『腹式呼吸』、『滑舌』、『ユーモア』、この三つは絶対に外せない条件」だと言い切る。それは、俳優として「絶対に外せない条件」でもある。その彼女が次のように言うとき、販売員としての素地と俳優としての素地に同質のものを見出すのは間違いではないと思うのである。

 「お客さんの笑顔を見ると心が満たされていくのです。心が満たされることは快感だから(人間は快感を求める生き物だから)、パワー・マネキンは安いギャラでもがんばって働いてしまうのですよ。そして心が満たされているから、笑顔が本物の笑顔になる。そのことは、必ずお客さんに通じるし、楽しい気分は伝染するんです。」


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 去る226日木曜日、大阪市立中央図書館において、大阪公共図書館協会主催の講演をさせていただいた。そのレジュメに、「私は何故図書館にコミットするのか?」という項目を入れた。

 思えば一昨年上梓した「劇場としての書店」(新評論)の「あとがき」にあたる部分で「図書館を利用する書店人」と「カミングアウト」(?)してから、図書館の方々を対象とした講演は五度目になる。その間、このコラムで何度も図書館について取り上げたし、「ず・ぼん」の座談会に出席したりもした。書店人であって図書館人でも図書館研究者でもないぼくが、何故このように執拗に(?)図書館にコミットするのか、そのことについてひとこと言い添える必要を感じたからである。

 第一には、図書館によりよい空間であって欲しいという、「図書館ユーザー」としての素朴な願いからであることは間違いない。それについての具体的な願望や提案は、このコラムでも書いてきた通りだ。

 一方、では書店人としての立場とはまったく無関係なのかというと、そうではない。貸し出しと販売という形態の違いこそあれ、読者に書物を提供するという仕事を共有している図書館をめぐるさまざまな問題は、書店の持つさまざまな問題と重な部分が多いからだ。書店現場と同質の問題を、図書館という別の現場の中で見ると、照射角度が少し変わるせいか、より立体的に、くっきりと見えてくる。第三者的に鳥瞰的な視線を投げかけることができることが、問題の本質をより鮮明に浮かび上がらせることにつながるとも感じる。

 たとえば愛知川図書館でユニークな図書館運営に当たる渡部幹雄氏の「図書館を遊ぶ」(新評論)を読むと、「それは書店においても同様」と思い当たる部分が多々あるのだ。

 「それぞれの読者の現在の実力では読破できなくても、いつかはチャレンジしてみようという思いを抱かせるような配架も考えるべきであり、個人の興味の進度にあわせた段階的な資料の収集を心がけるべきである。」(P21)同じことは、書店での棚づくりにも言える。「注意事項などの張り紙が目に付きませんか?大多数の善良な人には問題がないのに一部の不心得者のために張り紙を出さざるを得ないこともあるが、それも目立つようであれば善良な利用者に対して深いな思いをさせてしまうので、気を付けねばならない。図書館はホテルに似たところがあり、利用者には気持ちよく利用していただくことが第一である。問題があれば、直接問題を起こしている人に対して注意すべきである。」(P25)のは、書店においても全く同様だ。「職員が『どうぞお入り下さい』と心から利用されることを喜びとして対応するのと、内心『仕事が増えるから、できればあまり多くの利用者に来てほしくない』と思うのでは、当然、利用率に明らかな差が出てくると思うがいかがだろうか。」(59)という問いかけは、「職員」を「書店員」に「利用者」を「お客様」に、「利用率」を「売り上げ」に変換すれば、まさに書店に対する問いかけとなる。

 また、一見図書館固有の問題と思われるものでも、その本質が書店の抱える問題と通底する場合が多い。このコラムでも取り上げた業務委託の問題は、書店員のパート化の問題とパラレルである。

都立図書館の変節に端を発したデポジットライブラリー(共同保存図書館)の構想は、市町村立、区立図書館へのスムーズな資料提供を大きな目的の一つとしている。いわば書物を必要としている人に速やかにそれを提供しようという構想といえるから、それはわが書店業界の客注問題と課題を共有している。こちらの側では、須坂構想が破綻した今、出版倉庫流通協議会の共同ネットセンター構想が浮上している。(デポジットライブラリーについては、ポット出版「東京にデポジットライブラリーを」を、共同ネットセンターについては、「新文化」2月5日号を是非お読みいただきたい。)

 一方、図書館と書店では決定的に役割分担が違うことも、ぼくが図書館に興味を寄せる理由である。小尾俊人氏は「書店は摘みとった糧をひろく播き、古本屋と図書館は刈り入れて、整理し、保存する人」(「本は生まれる。そして、それから」幻戯書房)と言う。まさに然り。前回書いたように「魂の労働」(渋谷望著 青土社)に触発されたぼくは、小さなフェアをやろうとしていくつかの本の在庫状況を調べた。その中で、東京創元社の「組織の中の人間 上・下」(W.H.ホワイト)「ホワイト・カラー」(C.ライト・ミルズ)の2点は、既に絶版になっており、入手は不可、フェアに加えることはできなかった。大変残念な思いをしたのだが、埼玉県の図書館の蔵書検索システムで調べてみると、前者は朝霞市立図書館で、後者は県立浦和図書館で見つかったので、ほっとした。ぼく自身を含めて、興味を持った人があれば、図書館で借りて読むことができるからだ。

 本を読者に提供するという共通の目的を持ちながら、存在理由には明確な差異がある書店と図書館が、共通点と差異をそれぞれ認識しながら、読者の期待に応えていくこと、敢て言えば読者をつくり、育てていくことが、双方にとって何よりも重要なことだとぼくは心底感じているのだが、いかがだろうか。

 宣伝を一つ。4月中旬に出版される「ず・ぼん9号」(ポット出版)には、このコラムで図書館について書いてきた部分が転載される。それをめぐって、デポジットライブラリーを提唱する「多摩地域の図書館をむすび育てる会」の事務局長でもある、国分寺市恋ヶ窪図書館の堀渡さんとぼくとの対談も掲載される。昨年この欄でも紹介したように、「業務委託」をテーマとした座談会にもぼくは出席している。是非、ご一読ください。


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 岩波セミナールームで行われた「21世紀の出版を考える会」月例会のテーマは、「『週刊文春』出版差し止め事件」であった。会員である文藝春秋の浅井、名女川両氏から、「事件」のつぶさな経緯や現場の具体的な状況も伝えられた。

 「事件」を報道する朝日、毎日、読売、産経各紙の記事(3/174/6)のタイトルの一覧表が資料として作成され、新聞ジャーナリズムの姿勢が、俎上に乗せられた。そもそも毎日の「販売差し止め」を除き、朝日「出版を停止」、読売「出版禁止」、産経「出版禁止」と、事実に対する正確な把握がなされていない。(「週刊文春」当該号は、すでに出版されており、大方の取次配本もすんでいた。裁判所が回収命令を出さなかったのは、出版業界の「委託」販売における所有権の移動についての誤解から起こったことと見られるが、いずれにしても、市場に出回った「週刊文春」は、またたく間に完売となったのである。)新聞ジャーナリズムのこうした混乱自体、「出版差し止め」という事態がいかに異例のものであったかを表しているといえるが、その後の記事を見ても、「事前検閲」に対する問題意識は薄く、「言論の自由」という自らのレゾン・デートルを守り、主張することに及び腰だったと言わざるをえない。

 もっとも、問題は新聞報道にのみあったわけではなく、出版業界内部においても、書協が“抗議声明”を出さなかったり、「販売差し止め」が取り消された時点で文藝春秋が即座に損害賠償請求をしなかったことにも、疑問が残された。

 何よりも問題なのは、議論の中心がプライバシーの保護如何、あるいは田中真紀子の長女が「公人」か「私人」かといったところに推移し、「言論・出版の自由」という民主主義社会の根幹となる原理が侵害されかけたことへの危機感、「検閲」への批判が後背に退いてしまったことである。昨今「表現の自由」と「プライバシー保護」が二者択一的に論じられることが常であるが、そもそもそれは本当に自明な図式なのであろうか。

 不可侵であることが当然のように語られる「プライバシー」について、ハンナ=アーレントは

むしろ「欠如態」として否定的に語る。「もともと『欠如している』privateという観念を含む『私的』”private”という用語が意味をもつのは、公的領域のこの多数性にかんしてである。完全に私的な生活を送るということは、なによりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が『奪われている』“deprived”ということを意味する。すなわち、他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、物の共通世界の介在によって他人と結びつき分離されていることから生じる他人との『客観的』関係を奪われていること、さらに、生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていること、などを意味する。」(「人間の条件」ちくま学芸文庫P87)「自分の私的な隠れ場所を去って、自分が誰であるかを示し、自分自身を暴露し、身を曝す。勇気は、いや大胆ささえ、このような行為の中にすでに現れているのである。この本来の意味の勇気がなかったら、活動と言論は不可能であり、したがってギリシア人の理論からいえば、自由もまったく不可能であろう。」(同P303

 アーレントの議論を受け、仲正昌樹は言う。「アーレントの『政治』の領域で『活動』する『人間』たちにとっては、他者の前に『現われること』、言い換えれば、行為主体としての自己の『暴露disclosure』こそが、人間として生活していくうえで、もっとも中心的な意味を持つ。ただし、暴露されるべき『本来の自己』が”暴露”に先立って『予め存在』しているということではない。その逆に、その都度の公的な光の下での『暴露』『現れ』を通して、『暴露されている自己』『現われている自己』が形成されるのである。」(「法の共同体」御茶の水書房P124)「『公的領域』の中で暴露される『現われ』というのは、『私』のうちにアプリオリに備わっている『本性=本質』を『再・現前化』したものではなく、他者との関係性(間主観性)の中で産出されているわけであるから、『私』の主観性の管轄を離れている。むしろ、『私』の『活動』を見ている『他者』たちが、私が『誰」であるかを規定しているというべきであろう。・・・『公的領域』の中で自らを暴露する「活動」に従事することで、人は、身体的同一性に還元されることのない人格=個人的同一性を獲得する。」(同P126

 こうした言説に触れると、「公人か私人か?」という問題設定すら、可能なのかどうかが怪しくなってくる。むしろ、誰しも「公人」の部分と「私人」の部分を持っていると見たほうがよいのではないか?

 多発する個人情報流出事件、あるいは「住基ネット」や監視カメラ設置に具体化される国家権力による管理・監視体制の強化。それらについての危惧は、もちろんぼくも十分持っている。「プライバシー侵害」を不問に付してよいなどとは、さらさら考えていない。しかしながら、それらは誰かが利益を得るために他者に不当な不利益を与えるものとして、明らかに犯罪、暴力の範疇で論じるべき問題であり、「プライバシー」を金科玉条にすべきではない。「出版publish」が「公publicにすること」である限り、少なくともわれわれ出版に携わる者は、「表現の自由」を第一義と考えるべきではないだろうか。


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 4月27日(火)、岩波セミナールームで、芳林堂書店(高田馬場店)を退職したばかりの生天目(なまため)美代子さんのお話をうかがうことができた。お客様との付き合い方、版元・取次の人たちとの接し方、フェアの作り方など、具体的な数々の話題は、30年の現場体験に裏打ちされて重みがあり、特に参加していた若い人たちに、刺激を与えたと思う。「書店人の条件」が「本の好きな人→販売が好きな人→整理能力のある人」と時代と共に変化してきたというお話は、とりわけ印象に残った。

 講演後の懇親会で、新文化の石橋記者が聞いてきた。「今日の生天目さんの話の中で、スリップを実際にさわることによって売上げを実感することの意義が言われていたのですが、SA化を推進し、スリップを使わなくなった立場としてはどうですか?」

 「スリップをさわることの意義は、まったく同感です。今でもカウンターにたまったスリップを手にすると、ぼくなんかでも色々なことが見えてくる。生天目さんのようなベテランなら、ましてやそうでしょう。」とぼくは即座に答えた。

 「しかし、」とすぐに付け加える。「スリップを正確に分ける作業には、かなりの熟練が必要で、かつ熟練をもってしても時間を要します。生天目さんほどのベテランにしてなお、家に持ち帰ってご主人がお風呂に入っている間を利用していたという話だったじゃないですか。しかも手作業だとそれが毎回の話になる。しかるべく調整されたSAシステムを導入した場合、商品の分類コードを一度登録しさえすれば、売れた商品のデータの分類は自動化される。かつてぼくらがやっていた再分類、すなわち在庫チェックのため棚順にスリップを並べ替える作業も、同時にできる。一覧表をその順にプリントアウトできるわけです。こうした分類や、スリップを一枚一枚数えるという作業を代替するカウント作業は、コンピュータはとにかく得意です。いかな熟練者でもかなうわけがない。いわばSA化とは、売上げ管理の合理化のために使われていたスリップ(=商品のrepresent)をさらに合理化せんとするものですから、スリップを使って出来ていたことを出来る限り『翻訳』していく必要がある。そのためには、なまじスリップを併用していてはダメで、スリップを一切使わない状況を作って炙り出されてくる不具合を解消すべくシステムを進化させる必要があるのです。」

 「合理化」とは、昨今謂われもなく伴ってしまっている「人減らし」を含意するものでは全くない。ヘーゲリアンとして言わせてもらえば、「合理化」の「理」は「理性」の「理」であり、「合理化」とは本来徹底的に人間に合わせるということであるはずだ。そのためになされるシステムの進化は、徹底的に人に資するものであるべきなのだ。スリップを順に並べて在庫チェックに備えることも、スリップを数えることも、売場を担当する人の行動を補佐し、発注や棚構成における意志決定を援助するものであった。データ処理やカウント能力に勝るコンピュータの導入は、そうした補佐・援助をさらに強化するのが目的であって、補佐・援助すべき人があって初めて意味のあるものとなる。システムの進化とは、そうした人とのインターフェイスをより有意義なものとすることなのである。

 「あくまで人が主であり、システムが従である。そうでないとシステムの存在意義そのものが疑わしい。」という立場にたつ時、シューマッハーの「中間技術」という概念が参考になる。ガンジーの「世界中の貧しい人たちを救うのは、大量生産ではなく、大衆による生産である。」という言葉を受け、シューマッハーは、資本集約的で大量のエネルギーを食い労働節約型の「大量生産の技術」に「大衆による生産」を対置、それを次のように性格づける。「誰もがもっている尊い資源、すなわちよく働く頭と器用な手が活用され、これを第一級の道具が助ける。現代の知識、経験の最良のものを活用、分散化を促進、エコロジーの法則にそむかず、稀少な資源を乱費せず、人間を機械に奉仕させるのではなく、人間に役立つように作られている。」そして、そうした「大衆による生産の技術」を「中間技術」と名付ける。その名は、「過去の幼稚な技術よりずっと優れたものではあるが、豊かな国の巨大技術と比べると、はるかに素朴で安く、しかも制約が少ない性格を言い表している。」(「スモール・イズ・ビューティフル」 講談社学術文庫 P204

 いわば「中間技術」は、ひたすら労働者の節約を目指す「巨大技術」と違い、機械と人間労働の双方を生産の為の資本とするシステムなのだ。「中間」は決して「逆行」を意味せず、「中間技術」は「巨大技術」より劣ったものではない、とシューマッハーは言う。「科学の本当の成果というものは正確な知識の積み上げにあり、その応用にはさまざまなかたちがあって、現代工業で今行われているのは、その一つにすぎない。だから、中間技術の開発とは新しい応用の開拓であり、この応用分野では、労働を節約し仕事を減らすために生産方法=技術に莫大なカネをかけたり、これを複雑にしたりすることは避けられ、技術は労働力のあまった社会に適したものになるのである。」(同P245

 シューマッハーの「中間技術」は、もともとインドをはじめとする所謂「被援助国」の開発に関して構想されたものである。しかし、そのことは、われわれがシステム開発に当たって「中間技術」という発想を参照することの妨げにはならない。内橋克人が言うように、今の日本も、シューマッハーが見て取る「被援助国」の問題・状況を共有しているのだ。「有能な職能人が自分にとってもっとも能力を発揮できる職場から締め出されるということは、彼が発揮できたであろう知的能力、開発力、高度の技術力など、社会にとって貴重な資源があたら廃棄物にされてしまうということである。これこそ真の意味での『社会的浪費』である。」(「〈節度の経済学〉の時代」 朝日新聞社 P24

 そもそも書店現場のSA化は、小売業の中でも明らかに後進である。われわれのフィールドには、極端な機械化に馴染まない要素があるのかもしれない。そのことを、ぼくは否定的にはとらえない。むしろ、われわれの仕事が資本集約的ではなく労働集約的であること、即ち書店現場がいまなお「人」が最も重要である空間であり続けていることに、誇りを持ちたいと思う。ぼくが「中間技術」に注目するのは、そのためなのだ。


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 前回に引き続き、シューマッハーから学ぶ。

 「私は機械的日常作業として長期の予想を絶えず修正するということに価値があるとも思わない。予想が求められるのは、長期的決定を下したり、以前の長期的決定を見直すときだけで、それは大企業でさえ頻繁に起こるわけではない。そして、そのときには、最良のデータを慎重かつ入念に選んで集め、一つ一つを経験に照して判断し、最後に衆知を集めて妥当な結論に到達するのがいいのである。こうした手間のかかる、しかも手探りの方法を、機械を使って省けると考えるのは、自らを欺くことである。」(P310

 「スモール・イズ・ビューティフル」(講談社学術文庫)の「未来予言の機会?」という章の一節である。この章においてシューマッハーは、「人間の自由と言う例の玄妙で生命力に満ちた要因が入ってくる」(P298)未来を予言・予測することの可能性を、とりわけ現代において数式、そしてコンピュータの統計解析能力のめまぐるしい進歩によってそれが可能になるという仮定に、大きな疑問を投げかける。

 引用文の前半からわかるように、シューマッハーがここで主に議論の対象にしているのは、国家的な計画経済、企業の長期的な戦略などマクロな経済、経営であるが、同じことはミクロにも、例えばわれわれ書店人の日常業務にも言えると思うのである。

 遅れてきたSA化も、今や当たり前の労働環境になってきた。新刊発注、追加注文、あるいは返品を、その商品或いは過去の商品の売上実績をコンピュータ端末で参照して行うことは、もはや日常である。

 そのこと自体に異論はない。色々な機会に繰り返し述べてきたように、過去の売上実績をさまざまな作業の根拠とすることは、機械導入以前からずっとやってきたことだからだ。SA化は、売上実績の集計を、明らかに簡便に正確にしてくれる。

 問題なのは、売上実績の集計が判断根拠のすべてであると錯覚することだ。言い換えれば、SA化が仕事の全工程を機械的に決定してくれると考えることだ。シューマッハーの言葉を借りるならば、SA化は「最良のデータを慎重かつ入念に選んで集め」る作業を助けてくれるだけであり、「一つ一つを経験に照して判断し、最後に衆知を集め」る仕事は、人間に残されている。そのことを忘れては、SA化は決して有効な戦略にはつながらない。むしろ売上集計が容易でなく、随時それを参照できなかった時代の方が、やむを得ず衆知を集め、自ら判断するという仕事ができていたかもしれない。そうした経験の積み重ねが書店人を育てていた筈であり、SA化による便利さゆえの錯覚は、マイナス効果こそ大きいと言える。

 だからと言って、SA化無用論を唱えるつもりは、毛頭ない。SA化による売上実績へのアクセスの容易さは、「最良のデータを慎重かつ入念に選んで集め、一つ一つを経験に照して判断し、最後に衆知を集めて妥当な結論に到達する」という仕事の工程の最初の部分を大いに助けてくれるものであり、工程をトータルに捉える時、かつその時に限り大きな武器となってくれるからである。

 状況は刻一刻と変わり、書店現場においても毎日がゼロからの出発である。日に200点以上出る新刊の売れ行きは予想がつかない。既刊本についても然りである。出て何日たったら売れなくなるという目安はない。ぼくら書店人にとってもっとも大切なのは、自らが本が売れる瞬間に、売れる場に立ち会っているということの自覚である。それこそが最大の武器であり、仕事の全工程を首尾よく収めるための条件である。本が目の前で売れていく場にあって感性を研ぎ澄ますことが、何よりも大事なのである。「『立ち止まり、見回し、耳を澄ませ』というモットーは、『予想表を見よ』にまさるのである。」(P313

 「想像図を本物の地図だと勘違いして使う人は、往々にして地図などもたない人に劣る。なぜかというと、そういう人は、道をたずねたり、地形をよく観察し、方向を示すものを探して、カンと頭とを絶えず働かせることを怠るからである。」(P304

 現在のわれわれにとって「想像図」にあたるものは、例えば検索端末だろうか。それは確かに便利なものではあるが、POSデータの集信や仕入れ実績の入力の反映に生じるタイムラグ、取り置き、場合によっては万引きによって生じる実態との相違の可能性を考えた場合、検索結果を鵜呑みにすることは、たいへん危険である。そうした相違を可能な限り小さくしていくシステム上の努力は当然必要だが、完璧なシステムはありえないことも肝に銘じておかなければならない。

 そもそも機械が示す結果をそのまま伝えるだけなら、書店人は要らない。お客様が望む本について、検索結果をもとに「現在当店に在庫はございません。」と誇らしげに宣言する店員など、よしそれが言明として誤りでなかったとしても、本末転倒もいいところである。われわれの役目は、お客様の求める本を提供することであり、もしもそれが手元にないならば、入手可能性やそのための所要日数を調べ、或いは代替品について提案することである。そのためには、即ち折角来店してくださったお客様に満足を与えるためには、「道をたずねたり、地形をよく観察し、方向を示すものを探して、カンと頭とを絶えず働かせる」姿勢が、常に要求されているのである。


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 .ジュンク堂書店池袋本店における7月のトークセッションには、ぼくの企画として、竹田青嗣・西研(10日)、熊野純彦(17日)、大澤真幸(24日)、浅羽通明(29日)と、錚錚たるゲストをお招きすることができ、とても刺激的な1ヶ月であった。今回は、そのトリをつとめて下さった浅羽通明氏について。

 特筆しておきたいのは、浅羽氏の、書き手としてのリアリスティックな視座である。浅羽氏には、「『倫理』であれ『物語』であれ、また『教養』であれ、それが万人へ妥当するとも、万人が必要としているとも考えないという前提」(「野望としての教養」時事通信社P508)がある。それゆえ、「本というのは、本を読む人しか読まないんです。(中略)私の書くものの特長は、ここに自覚的だというところです。」(同P90)「私はさっき言ったように、発言する時ものを書く時、それを一体どういうタイプの誰が読むのか、これがこういう雑誌に載ったらこういう人が読む、こういうかたちの本を出せばこういう人が読むと、どこまでも人間の個別性、具体性から離れずに考えている。」(同P100)と言明する。

 「本というものは基本的に不特定多数一般を相手にしているという思い込み」(同P100)に決して陥らない浅羽氏の姿勢は、書店現場におけるリアリズムと大いに通じる。

 ぼくがジュンク堂のPR誌「書標」8月号に書評を寄せた「思想なんかいらない生活」(ちくま新書)の勢古浩爾氏のモティーフも、同じ象限内にあると言ってよい。勢古氏は同書のなかで、居並ぶ現代思想の旗手たちをメッタ斬りにする。「思想『原理』なんかよりも日常の現場が大事であり、『近代の人間』なんかよりも目の前の人間がどうなるのかが問題であり、『自己欲望(個別性)』が『普遍的ほんとう』と『絶対的な対立関係』にはないという観念よりも、近隣や組織内での『自己欲望(個別性)』同士の衝突のほうがより切実である。」(『思想なんかいらない生活』P90)、「橋爪(大三郎)によれば思想を『享受』するということは、自分と異質の考えをもつ人間との出会いを喜ぶことである。だけどそのことによって『思想家を支える』って、どういうことなのか。『思想家』の本を買えということ?このへんムチャクチャ。おまけにけっこうエラソーである。」(同106)云々。

 勢古氏じしんの表現を借りれば、「二階」に住む「インテリさん」たちが「大衆」の住む「一階」に降りてきて分りやすく語りかけようとする際の失敗、あるいは無意味さを、「生活者」のリアリズムで忌憚なく糾弾していくのが同書である。「いうまでもないが、勤めている会社の今期の営業成績の方がよっぽど重要である。来期以降どうするかという準備と予測のほうが重要である。」(同P123

 それは全くその通りである。一会社員であるぼくも、そのこと自体にまったく異論はない。だが、だからといってそのことが、即「思想」を否定する理由になるとは、思わない。

 書店現場のリアリズムは、再び浅羽氏の言葉に引き寄せられる。「けだし、『新しい教養』は、万人のためのものさしではない。むしろ、『教養』など必要としない人々が大多数である現実を当初より充分に繰り込んだ上で、そうした人たちと協働して世の中をつないでゆく意義を、『教養』なくしてはいられない少数の人々へ納得させるものとしてたち顕れるべきだろう。」(「野望としての教養」P507)

 今回の浅羽氏のトークセッションは、ちくま新書の「アナーキズム」「ナショナリズム」の刊行記念であった。その両著の書評を、鹿島茂氏が毎日新聞(8/1)に寄せている。「本書は『おたく』『ひきこもり』など、思想と無縁な人たちが思想を必要とするのはどんなときか、また思想がどのようなかたちで役だつかを指摘するとともに、その限界も同時に明らかにし、乗り越えるべき思想の鞍部を示唆しているのである。」という評は、失礼ながら、浅羽氏のリアリズムとは対極にあり、浅羽氏の視座を見誤っているとしか言えない。浅羽氏は、両著それぞれのあとがきにおいて、次のように言い切っているからだ。「ほとんどの人はいわゆる『思想』など必要としていない。人が思想を必要とするというよりも、思想を必要としてしまう人がいるのだ。(中略)こんな風に『思想』を捉えるのは、思想をそれ自体、価値あるものと考えず、私たちにとって、何らかの事態に役だつ知の道具として扱う私の立場ゆえである。」

 浅羽氏の「アナーキズム」「リアリズム」と勢古氏の「思想なんかいらない生活」の両方を手がけた筑摩書房の編集者山野浩一氏はこう言う。「浅羽氏と勢古氏は、『思想』に対して、それぞれ、『生活を捨ててでも思想に向き合う』と、『思想よりも結局は生活が第一義的じゃないか』というそれぞれのアプローチを、ぎりぎりまでやるとあのようなかたちになる、ということの両極だったように、私は理解といいますか、その両方をやってほしかったのでした。どちらがどう、ということではなく、いずれも、生易しく『思想』を語らないでくれ、というお二人からのメッセージであったと思います。形はまったく違いますけど。」

 「生活」と「思想」のあいだの緊張、それを見据えることにこそ、書店のレゾン・デートルがあるような気もする。


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 戸田市立図書館や埼玉県立図書館から資料を配送してもらい、その受け取り場所としてよく利用している家の近くの上戸田分室のささやかな新着図書コーナーで、紺野登著「創造経営の戦略」(ちくま新書)を見つけたのは、6月下旬のことだった。何となく気になりながらその時は借りなかったのだが、1週間後に訪れた時まだそこに並んでいたのを見つけ、借りて読んでみた。その本の編集者が、前回取り上げた「思想なんかいらない生活」、「アナーキズム」、「ナショナリズム」と同じ山野浩一氏であることを知ったのは、巻末の「さいごに」を読み終える寸前だった。

 新書版というコンパクトなつくりの本書から、多くのことを教えられた。その中でも特に印象に残ったのは、「経験デザイン」という概念である。

 この概念のために紺野氏は、“第5章 「経験」をデザインする”という1章を割き、そこで、「経験デザインとは、個人的記憶、深層心理、文化、社会コードなどをてがかりとして、経験価値=高付加価値の創出を行うことである。」(P156)と定義づける。即ちここでいう「デザイン」とは、最早商品の意匠に留まるものではなく、顧客の「経験」そのものを方向付け、顧客満足を獲得する「はたらきかけ」なのである。

 わかりやすいのは、ディズニーランドなどのテーマパークが来場者に与える付加価値であろう。紺野氏は、豆を買って自宅で飲む場合から有名珈琲店で飲む場合まで、さまざまな状況の価格差を例に上げ、「コーヒーバーやカフェで売っているのはコーヒーだけではない。コーヒーを飲むという「経験」をこそ彼らは売っているのだ。でないと、この値段の格差はありえない。経験は主観価値の具現化された象徴的な例だ。」(P144)という。

 ここで述べられる「主観価値」という概念こそ、 “第3章 客観価値から主観価値へ”という1章が割かれる、もうひとつのキー・コンセプトである。

 「顧客(=個客)がソリューションをつうじて得られる価値は、顧客の特定の状況や条件によって異なる。そのため、基本的には価値ベースの価格が主流となる。問題は、コストの積み上げで価格を決めるのではなく、価値によって決めていくという点だ。その背景には『知』がある。」(P81)すなわち、「顧客が欲するサービスを実現した結果、顧客によって感じられる価値への対価から利益を配分するのである、それは単なるサービス化を指しているのではない。ハードはある意味でこれまでのハード以上に重要である。むしろ、サービスもソフトも、ハードも、個客が価値を感じ、かつそれぞれの提供者が相応に利益配分できる仕組みのデザインが重要だといえるのである。」(P114

 「主観価値」の重要性は、テーマパーク的なサービス業に限定されるわけではない。高級レストラン等はもちろん、航空や配送、ブランド商品やコンピュータの販売(デルの戦略)など、広い範囲の業態で、紺野氏は「主観価値」の重要性を認識した戦略の成功例を挙げる。

 省みれば、書物という商品こそ、顧客の「主観価値」がその成否を左右する商品の最たるものではないだろうか。確かに、書物の価格も、制作費プラスαを分子、刷り部数を分母とする「客観価値」である点で他の商品と共通しているが、その書物をその価格で買うかどうかは、読者の「主観価値」に徹底して委ねられる。そもそも刷り部数自体が、その書物を読もうとする読者の意志を想定して決定されるわけだから、価格そのものが、予め読者の「主観価値」を組み込んでいるとも言える。

読者という顧客(=個客)は、ほぼ例外なく、書物という物体に対価を払うのではなく、その書物を読むということ、すなわち読書という経験に対価を支払う。だから、著者や編集者の「はたらきかけ」は、顧客の読書経験をデザインすることだと言っていい。

 翻って、まさに書物という商品の販売現場にいる書店人はどうか。書店人の「はたらきかけ」もまた、顧客である読者の「経験をデザイン」することなのだろうか。然り、とぼくは答えたい。それは、書物を買うという行為が、まさに読書経験の第一歩と言えると思うからである。

 書店を訪れる読者は、何よりも書物との素敵な出会いを期待する。購入書物が予め定まっている「目的買い」のケースも多々あろうが、それでも2冊目からは「衝動買い」なのだ。その「衝動」を受けとめ、試行錯誤、逡巡の末、自らをその「読書経験」へと誘い込む書物を選択する、すなわち書店で書物を購入するその瞬間こそ、個々の「読書経験」の第一歩であり、ひょっとしたら最も決定的な一歩だと言ってもいいかもしれない。

「出会い」は、さまざまな偶然に支配される。「衝動」を産み出す、多様なしかけや演出が可能である。その多様性こそ、読者の「経験」に関与する書店人の「はたらきかけ」の特徴であって、日本中の書店が「ハリー・ポッター」の予約数を競って狂乱する状況は、例外(もっと言えば異常)なのだ。

 「経験デザイン」について語る紺野氏に、今少し耳を傾けよう。「そこでは、個人(たとえばデザイナー)が独自で獲得した、あるいは個人が社会的・文化的に共有した意識的経験が核になる。」(P156)「経験デザインにおいては、単に顧客はこう感じるのではないかという想像ではなく、自分の原体験や顧客との対話が必要だ。」(P158)「経験デザインといったときに重要(本質的)になるのは、外的刺激や出来事の提供よりも、内的経験であり、顧客に価値を提供しようとする際にとくに意識すべき点である。」(P169

 こうして見ると、書物を買うという行為が「読書経験」の最初の重要な一部分だとするならば、その「経験」をデザインする書店人が、自ら読者と「経験」を共有していることは、必要不可欠なことではないだろうか。

 元ブックストア談の青田恵一氏は、近著「書店ルネッサンス」(青田コーポレーション出版部発行・八潮出版社発売)において、これからの書店経営において「ひとづくり」こそ最も重要であると、繰り返し主張されている。「「ひと」とは読者第一を志す「ひと」であり、ノウハウとは読者満足のノウハウを指す。読者満足に向け革新を続けることが、生き延びる書店の条件といえよう。」(「書店ルネッサンス」P198

 問題意識は、まったく共有していると思う。


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 前回取り上げた「創造経営の戦略」(紺野昇著 ちくま新書)で、もう一つ魅かれたのは「暗黙知」という概念である。この概念を生み出したマイケル・ポランニーは、主に生物の進化や科学の進歩の場面でその重要性を主張している(「暗黙知の次元」ちくま学芸文庫)が、紺野氏は、ステージを経営の場に移す。

 「暗黙知」は、「社会的で客観的」な「形式知」に対して「個人的で主観的」な知識である(例えば、有名シェフの知)。身体に埋め込まれた知であり、言語化して理解可能にすることが難しい。そうした、言葉にならず、把握しにくい「暗黙知」を、従来の経営理論は軽視してきたが、紺野氏は、「誰もが明確にわかるような知識はやがてコピーされて価値を失う」とし、経営にとっての「暗黙知」の重要性を説く。

 「容易に真似できない知識であるからこそ、暗黙知には価値があり、それを醸成・内包する豊かなワークプレイスの構築は企業にとって最大の命題となる。工場であれ、売り場であれ、オフィスであれ、知識は身体作業をともなう現場の実践(プラクティス)から生まれる。その場に立ち、皮膚感覚で感じなければ、見過ごしてしまう暗黙知の軽視は、現実乖離に向かう。」(「創造経営の戦略」P175

 ぼくが魅力を感じるのは、まず「暗黙知」が言語化されないという点である。それは、仕事のマニュアル化への抵抗感、コンピュータ導入による「合理化」への違和感を説明してくれる。マニュアルとは、「誰でも読んでわかる」ものであり、コンピュータに肩代わりさせられるのは、プログラム化もしくはデータベース化、すなわち言語化可能な部分だけだからだ。仕事は、頭で理解するものではなく、「身につける」ものなのだ。ポランニーも言う。「暗黙的認識において、ある事物に近位項(A)の役割を与えるとき、私たちはそれを自らの身体に取り込む、もしくは自らの身体を延長してそれを包み込んでしまう。その結果として、私たちはその事物に内在する(dwell in)するようになる。」(「暗黙知の次元」 P38)こうした認識は、実は修行の場ではおなじみのものである。「観察者は、行為者の動作を内面化することによって、その動作の中へ内在化するのだ。こうした探索的な内在化を繰り返しながら、弟子は師匠の技術の感触を我がものとし、その良きライバルとなるべく腕を磨いていくのである。」(「暗黙知の次元」P57

 ぼくは言葉の持つ力を軽視するものではない。そんなことをしたら、書物の価値自体を貶めてしまい、書店人のレゾンデートルを自ら否定することになる。言葉の力は強大であり、言葉の担うものは豊穣である。そのことを充分踏まえた上で、さらにそうした言葉でさえ担いきれない知があることをも認めること、そのことが重要なのである。「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。」(「暗黙知の次元」P18

 ではそうした「暗黙知」は、言葉ではなく何に媒介されて伝達され、共有されるのか。その時に重要になってくるのが、「場」である。「場」の重視こそ、ぼくが「暗黙知」の議論に魅力を感じる、もう一つのことなのだ。

 「暗黙知の場は、経験の共有から出発し、異なる視線や価値観など矛盾や対立を孕みつつ、結果的にそれを乗り越え、やがて不可視ではあるが、なんらかの共通した知識がナレッジワーカーの間に広がっていく局面である。「見えないもの」が見えるようになってくる共同作業の過程といっていい。「現場を見ろ、現場を見ろ、現場を見ろ」と説いた本田宗一郎の三現主義はまさに暗黙知の場へ立ち返れ、という教えである。トヨタウエイの礎となった大野耐一が「何もせずに生産現場にたっておれ」と新人に指示を出したのも、経験の共有や現場意識こそが有効な暗黙知を作り出すと考えていたからにほかならない。」(「創造経営の戦略」P204

 書店人の修行の場は、書店現場でしかない。部下や後輩にノウハウを伝えるには、書店現場での具体的な実践、棚作りから接客に至るまで、具体的な作業を一つ一つ見せ、ある時には言語化し、ある時にはなぞることによって、それらの実践を成り立たせている「暗黙知」を「体得」してもらうしかない。「体得」のためには、「なぞる」即ちその場において具体的に行動する必要がある。見ているだけでは駄目なのである。そうした試行が可能な「場」であることによって、書店現場は修行の場となる。

 そうした「場」であることには、扱う商品とのズレが生じている。書物とは、あくまで言語化によって知を伝達する媒体だからだ。だが、そうしたズレこそが、書店という「場」の引力の源なのかもしれない。「暗黙知」と「形式知」が同時に不可欠な場であること、そして両者が同時に存在していること、そのことによって、書店という「場」は、そこに引き寄せられる顧客=読者にとっても修行の場、即ち「暗黙知」が伝達、共有されていく「場」となるのである。その時、顧客=読者は、ただ「暗黙知」を伝達される受け身の存在であるのではない。知らず知らずのうちに自らの「暗黙知」を提供する存在にもなっている。

 「ワークプレイスの「ライフプレイス」化の重要性が急速に高まりつつある。それは、オフィスが広場的意味を持つということであり、オフィスに来ないとあるいはアクセスしないと知が高まらない、ということでもある。人的つながりを基にした知的資本を組織が維持する必要性が増しているのだ。それはオフィスと共同体の関係を強めることになる。」(「創造経営の戦略」P 194)「私たちはここで、知識時代の企業の「第三の組織」として、知識の共有・創造のプロセスを中心にすえた、「場」を単位とする組織を想定することができる。いまや知識の源泉は、知識共同体(CPO communities of practice)と呼ばれるような知識コミュニティや、アドホックに知識創造が起きる創発的な場だといっても過言ではない。」(同P176

 書店という「場」が、書き手、作り手、売り手、買い手が集まる「広場」として、そこに集まったすべての人を巻き込んだ「創発的な場」であることを、ぼくらは目指したい。


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 前回の最後に「書店という「場」が、書き手、作り手、売り手、買い手が集まる「広場」として、そこに集まったすべての人を巻き込んだ「創発的な場」であることを、ぼくらは目指したい。」と書いた。それは、本という商品をめぐって立場・役割の異なった人たちを巻き込む「場」ということをもちろん意味しているのだが、同時に、同じ立場・役割の人たち、すなわちライヴァルが集う「場」でもありたい。例えば、「トークセッション」にお呼びした著者同士が繰りひろげる討論が相互に触発し合い、或いは訪れた編集者が他社の本を見ながら新たな創作意欲を抱く「場」でありたい。そしてそのためには、何よりも先ず、書店という「場」が、売り手=書店人が互いに触発しあう「場」でなければならないのではないか、と思うのだ。

 青田恵一さんも言う。

 「もはや、一店一社だけのノウハウで市場拡大できる時代では、すでにないのかもしれない。ストア・コンパリゾンが、有効なノウハウを広める機能を持つのであれば、意欲ある書店が相互にストア・コンパリゾンに挑みあい、得られるノウハウを吸収するのは、むしろ自然のこととも思えるのである。」(「書店ルネッサンス」P84

 ライヴァル店を観察して、そのノウハウを吸収したり、逆に弱点を自店の棚構成に反映させたりすることは、昔から行われていたことだろう。「ストア・コンパリゾン」そのものは、決して新しくはないかもしれない。むしろ重要なのは、「一店一社だけのノウハウで市場拡大できる時代では、すでにない」という部分であり、もっと言えば、そもそも書店という業態が「一店一社だけのノウハウで市場に応えることはできない」ことなのだ。

 ならば、「ストア・コンパリゾン」の目的は、実は「競争」ではなく「協奏」だと言えないか。

 青田さんはまた、「書店ルネッサンス」の決め手は、「人」だと強調する。

 「創意工夫が多い店には、自立する担当者が存在する。読者のために、みずから企画し、自らPOPをつくり、販促をかける、このような担当者が増えてきた。店の内部では最も大きい要因といえよう。」(同P36

 前回とのつながりでいえば、「人」こそ、言語化できない「暗黙知」を胚胎する存在であり、その流通の媒体なのだ。マイケル・ポランニーも、「暗黙知の次元」の後半部にあたる第V章を「探求者たちの社会」と題し、「科学的共同体」について熱っぽく語っている。「独創性は、あらゆる段階で、人間精神内の真実を増進させるという責任感によって支配されている。その自由とは完全なる奉仕のことなのだ。」(「暗黙知の次元」ちくま学芸文庫P127)「最も革命的な精神の持ち主ですら、自分の天職として、小さな責任領域を選ばざるをえないだろうし、それを変化させるためには、その前提として、周囲の世界に依拠することになるだろう。思考や社会を丸ごと変えようとする完全主義は、破壊のプログラムであり、せいぜい見せかけの世界を構築するのが関の山だろう。」(同P139

 だとすれば、「暗黙知」=「ノウハウ」は、「人」と「人」の交流の中でのみ存在意義を持ち、進歩発展することができる。そして青田さんのいうように、「書店とは、ジャンルをテナントとした本のショッピング・センターだ。そのノウハウも、どちらかといえば、書店というより、各ジャンルに所属している」(「書店ルネッサンス」P174)のであれば、その交流は、一書店内のそれよりも、他書店の同じジャンルの担当者とのものの方が、より実りあるものになるであろう。

 更に、「ノウハウ」の交換の意義は、ジャンル担当者同士の交流にのみあるのではない。マネジメントを仕事とする立場の「人」同士の交流も、或いはそれ以上に意義がある。万引きへの対処、返品・交換に応じる基準、消費税の計算方法、さまざまなクレームへの対処法など、率直な情報交換によってある種の共通認識を持っておいた方がよい日常的なアジェンダは、書店現場にも数多くある。ポイントカード、再販制など業界全体の制度的な懸案について、忌憚なき意見を述べ合うことも、有用かもしれない。

 だから青田さんの次の言葉には、全面的に賛同する。

 「気の遇う書店人、もしくは店同士、チェーン同士で交流会を持つのも効果的。最近、様相が変わってきたものの、和戦両様というか、喧嘩しながら仲がいいのも昔からの業界特性だ。今後は書店チェーン間で、本格的な提携や合併・買収も視野に入ってくる。婚約・結婚の可能性があれば、このような形で「いい関係」を作るのもひとつの方法ではないか。」(同P54

 「婚約・結婚の可能性」というのも、昨今の書店業界の動きの中では意味深な言葉だが、ぼくは、「愛人」関係でもいいと思っている。

 神田神保町で、東京駅前で、池袋で、新宿で、ライヴァル書店たちが「競争」しながら「協奏」する、そしてそうした書店が集積することで、より巨大な「書店空間」を形成して読者の期待に応える、そんなスケールの大きな「野望」を、ぼくたちは抱かねばならないのではないだろうか。

 「戦うのは和解せんがためである。」(三木清)


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 前回の最後に、“ライヴァル書店たちが「競争」しながら「協奏」する、そしてそうした書店が集積することで、より巨大な「書店空間」を形成して読者の期待に応える、そんなスケールの大きな「野望」を、ぼくたちは抱かねばならないのではないだろうか。”と書いた。その主張は、そもそも書店という業態が「一店一社だけのノウハウで市場に応えることはできない」ことを根拠とする。決して単純に「共存の美徳」を追求するものではないし、ましてや馴れ合いや談合を推奨するものではない。むしろ重要なのは、個々の書店がそれぞれの現場に合わせて独自のノウハウを持ち、発展させていくこと、それぞれの個性を培っていくことなのだ。

 そうしたあり様について、社会全体という大きな土俵でのモデル構築を目指すのが、國領二郎氏の「オープン・ソリューション社会の構想」(日本経済新聞社)である。國領氏は、「コンピュータネットワークによって散在している人間の知を結集させ、そこに生み出されるエネルギーを使って、日本に新しい未来への展望を開く」(P13)ことを目標とする。その「ソリューション設計の根底にあるのは情報の流れの悪さゆえに、末端に散らばってしまって孤立している人的物的資源の活用」であり、「いつでも、どこでも、何にでもつながるオープンなネットワーク」が「ロスを大幅に削減することを可能にする」(P2)と言う。

 その構想を具体化する基盤は、インターネットである。それは、インターネット自体が分散型の仕組みになっていると同時に、世の中の分散的なシステムの成立を支えているからだ。國領氏のいう「オープン」は、「自律・分散・協調の思想」であり、そのための情報ネットワークは、集中処理型ではなく、分散処理型なのである。

 そのことは、さまざまな問題を「民のイニシアチブで解決する」という志向とも整合性を持つ。「ソリューション提供の担い手としては、ビジネスを中心に考えたい。環境、安全、心といった従来なら行政に解決をゆだねていた領域にビジネスが正面から取り組み、そこで成果を上げた企業が利益を得る仕組みを構想したい。これは市場がすべてを解決するというような立場をとりたいわけではない。そうではなくて、私的な価値生産活動が社会全体に貢献するメカニズムを構築することで、各個人の創意工夫が生きることになると考えるからである。」(P53)

 われわれの業界に当てはめて言えば、個々の書店がそれぞれのビジネスの中で行う創意工夫が、もちろんまずその書店の利益につながりながら、間接的に他の書店のビジネスを助けたり、業界全体の問題解決に貢献するしくみ、ネットワークを構築しようということである。

 このことは、実はすでに、意図せずして日常的には現実化している。例えば、顧客の問い合わせに自店のデータベースで応え切れなかったとき、他店のホームページを覗くのは、今や当たり前のことである。在庫状況の開示があれば、自然そのことも顧客に伝えるだろうし、顧客がその店に向かえばライヴァル書店を利することにもなるが、少なくとも、問い合わせについての解決はなされている。「信頼」という面から言えば、自店にとっても大いに利益となっている。

 その「信頼」こそ、ビジネスにとって、これからますます重要になってくる要素なのだ。國領氏は言う。「希少性を軸としてモデルを考えるとすると、生産性が高まったモノやデジタル化された情報が溢れている世の中では、何が稀少となるか、と考えるのが収益モデルを考える上での鍵となる。その答は人の心の充足(信頼、安心、尊敬)にある、と考えてみてはどうだろうか?・・・別の表現をすると、ブランド価値が高まる世界と言ってもいい。」(P31)

 われわれがインターネットを利用するのは、他書店のホームページだけではない。出版社のホームページは、電話で聞けない土日・祝日には特に重宝する。(そのためにも、既刊書のデータベースだけでなく、重版、近刊情報なども、是非充実していただきたい。)特定の書目ではなく事項についての問い合わせ、つまりレファレンス・サービスに近い対応が必要な時には、検索サイトに直接その事項を打ち込んで、しかるべき書目を発見したり、有用な情報に出会えたりする。元々誰がいつ何のために創り出した情報なのかは、全く関係ない。そのことこそ、「末端に散らばってしまって孤立している人的物的資源の活用」によって「いつでも、どこでも、何にでもつながるオープンなネットワーク」が「ロスを大幅に削減する」、國領氏の目指す「オープン・ソリューション社会」の属性と言える。

 思えば、今年われわれの業界は、その正反対の過ちを犯した。内外から批判、揶揄された「ハリー・ポッター」騒ぎと例外なき失敗は、それぞれの書店が自らのうちに閉じこもり、自らの利益のみを追求し、実は予め存在していた懸念や不安に目をつぶり、「暴走」していった結果だったとは言えまいか。謂わば、時代に逆行する「クローズド」な体質が、必然的にもたらした結果だったとも思える。この失敗を糧とし、われわれの業界も、國領氏とともに「オープン・ソリューション社会」を目指したい。すでに日常的な現場は自然とその方向に動いており、また、考えてみれば、そもそもわれわれが扱う書物こそ、「オープン・ソリューション」の名に相応しい商品であるのだから。

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© Akira    Fukushima
 2007/04
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