本屋とコンピュータ(45〜57)2005年〜2006年4月
*07年3月に刊行した『希望の書店論』に収録された06年4月までのコラムを年次ごとにまとめました。

        福嶋 聡 (ジュンク堂 池袋店)

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前回の最後に言った“そもそもわれわれが扱う書物こそ、「オープン・ソリューション」の名に相応しい商品”とは、どういうことか。それは、インターネット書店のみならずリアル書店もまた書物の販売に際して情報ネットワークの恩恵に大いに浴している一方で、逆に書物(あるいは書物の販売)が、その情報ネットワークのアポリアを解決する手段でもあるということだ。

 前回も引用したように國領氏は、「ソリューション提供の担い手としては、ビジネスを中心に考えたい。・・・私的な価値生産活動が社会全体に貢献するメカニズムを構築することで、各個人の創意工夫が生きることになると考えるからである。」(「オープン・ソリューション社会の構想」P53)と言う。だとすれば、あらゆる「ソリューション」の核となる「情報」も、「ビジネス」の対象である、即ち対価を取れる「商品」であるべきだろう。

 「物的な生活が市場経済化している中で、ソフトウエアプログラマや、芸術家や、文筆家や研究者たちが創造活動に全精力をつぎ込めるようにするためには、知的創造を貨幣的な報酬に結びつけるモデルが必要だ。」(P147)

 ところが、「情報そのものは価格メカニズムになじまない性格を持っている。」それは「情報」が、「@追加一単位生産して配布するコストが限りなくゼロに近づきつつあるA他者に伝達しても自分の手元にも残るB共有して他者の持つ別の情報と組み合わせることで価値が高まるC同じ情報をより多くの人間が持つことで価値が高まる など物財にはない特性がある」からである。(P29)インターネット上では、更に「情報」は収益を上げにくく、その理由として「@情報の複製費用が極めて低いA課金コストの高さB情報の所有権の複雑さ」が挙げられる。(P149)

 ではどうするのか?

 一つの解決策が、「情報」を何とかして「物財」とすることである。

 「情報価値がモノである商品に転写、凝縮していく」ものとして例えば自動車を例示した後、國領氏は言う。

 「同じメカニズムがより直截な形で現れるのが、印刷された書籍や、プラスチック盤(LP盤など)に記録された音楽などである。これらは実際に提供している価値は情報であるが、貨幣と交換されているのは情報を運ぶ媒体としての紙やプラスチック盤である。情報によって付加価値(希少性)が高められた媒体がより高い価格で貨幣と交換されるという相互補完関係の中で、このモデルが成立しているといえる。」(P156)

 つまり、情報化社会以前から、情報を商品とするための方法として、書物はあったのである。

 だが、いつまでも「その座に胡坐をかいている訳にはいかない。インターネットは、書物という「物財」による情報の流通の独占を、もはや許さないからだ。

 そこで最後の砦となるのは、情報の質=「ブランド」である。

 「情報財について分析を進めると、それ(供給が限られている)だけが希少性の源泉ではないことに気づく。その代表が顧客側の「認知限界」、すなわち人間が情報を受けとめて処理する能力の限界である。

 情報化が進めば進むほど問題となってくるのが、情報洪水である。これを本書の論理に合わせて表現すると、情報量が増えれば増えるほど、人間の認知能力が稀少な資源となってくる。収益モデルを構築する上で機械がボトルネックであった時代から、人間がボトルネックとなる時代への転換期を迎えていると表現していいだろう。」(P163)

 すなわち、インターネットによる情報の氾濫が混沌を産み出している今こそ、書物の存在理由があるともいえる。そしてそれを支えるのは、読者の書物に対する信頼である。

 しかし、最初の引用にもあるように、情報は「物財」とは対極の属性を持つ。だから、書物は純粋な「物財」とは言えない。人は、書物を購入したあと、それを「物財」として消費するのではなく、それに担われた情報を享受するのである。だからこそ、図書館や古書業界が成立するのだ。そのことは、複製の容易さと相俟って、書物が「物財」として希少性を対価の源泉とはなしえない所以である。

 だから、原理的には、「知的創造を貨幣的な報酬に結びつける」には、國領氏が挙げるもう一つのモデルの方が有効だと言える。

 「芸術の歴史を考えると、書籍やレコードの販売を行って収入を得るモデルよりも、パトロンなどによって支えられてきた時間の方が長いと言っていいだろう。パトロンがどんな動機で支援を行うかを表現するのは難しいが、名誉や自己満足といった心理的な要因が多いものと考えられる。動機はともかく、財の私的な占有を目指さず、共有される財の形成に対して貨幣を提供しようという行動は昔もいまも存在する。」(P166)

 書物という商品は、やはりパトロニズムの対象なのだ。


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 スティーブン・ジョンソン著「創発」(ソフトバンク・パブリッシング)を読んだ。訳者山形浩生のシニカルな訳注も含めて、とても面白く、刺激的な本だった。

 なによりも「創発」(Emergence)という概念が、魅力的で示唆的だ。

 たとえば、脳を持たない粘菌が、食料までの一番効率のいい経路を発見するプロセス。他のアリが発したフェロモンに反応するだけのアリが、結果的に秩序だった巣を形成するプロセス。中央都市計画委員会ではなく、ほとんど知らないもの同士が公共的な生活の中で自分の仕事をしているときの低次の行動の(あるいは街路での偶然の出会いの)積み重ねで作られる都市の構造。意識を持たない個別ニューロンが、何十億という集合体となると自己意識を作り出す、人間の脳。一九九〇年台初期にウィル・ライトが発表した、テレビゲーム史上ベストセラーの一つである「シムシティ」。

 そうした、個々の要素がまったく意図せずに、同時にどこかに全体を統制するペースメーカーが存在するわけでもなく、結果的に高次のシステムが形成される純粋にボトムアップなプロセス、それが「創発」なのだ。

 「われわれは自然に、カビの話だろうと政治システムの話だろうと自分の体の話だろうと、ペースメーカーの考え方を使ってしまいがちだ。われわれの行動は、ほとんどの場合は脳のペースメーカー細胞に統括されているようだし、何千年にもわたり、われわれは社会組織に入念なペースメーカー細胞を作り上げてきた。それは王様や独裁者、市会議員といった形で実現されている。われわれの回りの世界のほとんどは、命令系統や上意下達方式で説明される」(「創発」P11)

 しかし、現実には、粘菌やアリの行動にも、都市の発達にも、脳にも、ペースメーカーはいない。そして20世紀の壮大な「実験」が明らかにしているように、中央集権的な統制経済は、個々の欲望に委ねた資本主義経済を超えることができなかった。

 「統制ではなく創発を」、それこそSA化(コンピュータ導入)後の書店現場にも重要な発想だと思う。コンピュータ・システムの導入によって統制が可能になる、統制が有意義になるという臆見が広がった。機械化によって人材は不要になる、少なくとも中央本部に集結すれば事足りるという誤解が、SA化には付随した。だがSA化してもなお、いやむしろSA化したからこそ、現場が大事になる、現場に人材を投入する必要があるのだ。書店現場は個々の売買によって情報そのものが発生する場であり、その場に介在する人材こそ、情報の集積をを原資としてボトムアップ式に創発を生み出していくプロセスで、極めて大切な要素だからだ。

 ただし、その人材は、創発によって形成されるシステムを予知している必要はない。予知しているとすれば、そのシステムはその人材による統制であり、創発ではない。アリが巣の設計図を持たないように、街路を行き交う人々が都市計画には無頓着なように、個々のニューロンには意識などないように、結果的に創発を生み出す個々の要素は、創発の結果については予見できないし、無頓着なのだ。

 書店現場において、そのことは個々の書店員の愚直さとして現れる。売れた商品の適切な補充注文をする。入ってきた補充品を速やかに棚に並べる。新刊の売れ行きを注視する。SA化以前から普通に行われていた書店員の仕事をいかに地道にこなすか、SA化以後の創発の可能性は、むしろそうした―アリがひたすらフェロモンを追いかける様にも似た―書店員の愚直さにこそ担保されるのだ。「コロニーの知性は実はその構成部分のバカさ加減に依存している。アリが、例えばゴミ捨て業務についているアリの数について意識的な判断をいきなり始めたら、グループ全体にとっては惨憺たる結果になる。」(P101)

 「バカさ加減に依存している」という表現は、穏やかでないかもしれない。結局、SA化によって能力や意欲のある書店員は不要、もっとありていに言えば、給料の高い社員は不必要で、アルバイトだけで書店業務は回る、という議論に与するものではないか、と追及されるかもしれない。「SA化したからこそ、現場が大事になる、現場に人材を投入する必要がある」という主張と、全然整合性がないではないか、と。

 それに対しては、まず、「バカさ加減」が重要なのであって、「まったくのバカ」では創発は起こらない、と言っておこう。「「自由意志」をオフにすれば、シムピープルはすぐに、常時メンテナンスが必要な悪夢へと崩壊し、幼稚園やアルツハイマー患者の病院のような、絶え間ない世話焼きが必要となる。自由意志がなければ、シムたちは単にじっとしているだけで、あなたの指示を待ち続ける。」(P206)

 そして、ジョンソンも繰り返し述べているように、創発については「スケール」の問題を抜きには語れない。何年にも及ぶアリの本能行動によってつくりだされるコロニーの特色、何百年をかけて形成される都市、膨大な数のニューロンの集積ではじめて生じる「意識」、それら「創発」が出現するスケールは、個々の生存のスケールをはるかに超えている。

 それを書店現場にあてはめていえば、長い時間をかけて形成されるそれぞれの書店の個性は、個々の書店員のプランでつくられるわけではない、ということだ。書店員の思い入れだけで書店の個性が成立すると考えるのは、驕りである。ぼくたちにできるのは、自らの思いを愚直に仕事に反映させることだけだ。都市が街路における偶然の出会いの集積で成長していくように、自分たちの思いと店に訪れる読者の志向がうまく合致することを願いながら、もしもそれが叶わなかったならばその事実を仕事にフィードバックさせながら、一歩一歩前進するしかないのだ。一人一人の、一歩一歩が、やがて集積して知らず知らずのうちに読者から支持される書店が「創発」される。そのことを信じて、いやむしろ信じずに毎日の仕事に一所懸命打ち込むこと、そのことが大事なのだ。


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 「『アメリカ大都市の死と生』のすばらしさは、ジェイコブズが―科学がそれを表現するための用語を開発する以前に―そうした相互作用が都市に、創発システムを作り出せるようにするのだ、ということを理解したことにある。彼女は人々を「街路から追い出す」ような都市計画に情熱的に反対した。というのも彼女は、うまく機能する都市の活力と秩序はどちらもそうした街路に暮らす、ゆるい即興的な個人の組み合わせからくる、ということを認識していたからだ。ジェイコブズの理解では、都市は中央都市計画委員会で作られるものではなく、ほとんど知らないもの同士が公共的な生活の中で自分の仕事をしているときの低次の行動で作られるのだった。」(「創発」P95)「実は、ジェイコブズにとって、歩道の物理的な存在はどうでもいいのだ。大事なのは、それが都市住民同士の情報伝達の主要な経路になっているということだ。ご近所同士がお互いから学ぶのは、お互いに歩道で行き交うからだ」(同P97)

 ぼくが「創発」に魅せられたのは、都市についてのこうした見方と共振したからだ。書店は人びとが自由に行き交う「公道」であるべきだ、というぼくの書店観とダブる。ただし、一部例外的な状況を除いて、書店を行き交う読者同士で情報交換がなされることはない。それよりも、書店現場において日常的に行き交うのは、書物と読者である。それは、書き手と読み手の「出会い」である。ぼくが「論座」4月号に、「意識を持たない個別ニューロンが、何十億と集合するとなぜか自己意識を生み出す。脳で起こるそうした『創発』に似て、読者、書物、書き手の、個々のランダムな出会いが、有効な言論の状況を生み出す、そんな出会いの場で、書店はありたいと思う。」と書いた所以である。

 その「出会い」を一方で準備しながら、一方で情報化することが、書店員の仕事である。そうした「出会い」の一つ一つに愚直に対応することの集積によって魅力ある書店空間が生まれていく、それをぼくは書店の「創発」と呼びたいのだ。「愚直に対応する」には、スキルが必要であり、それ以上に感性が必要とされる。そのことを前回、「その場に介在する人材こそ、情報の集積をを原資としてボトムアップ式に創発を生み出していくプロセスで、極めて大切な要素」と書いたのである。

 「都市は、デジタルコンピュータなんて誰一人として夢にも思わない何千年も昔の時期から、ユーザーフレンドリーなインターフェースを作り出していた。都市は頭脳を集めてそれを一貫性あるスロットにおさめる。靴職人はほかの靴職人のまわりに集まり、ボタン製造者はほかのボタン製造者の近くに集まる。こうしたかたまりの中で、アイデアや財はなめらかに流れ、生産的な異種交配が行われるため、よいアイデアが地方部で孤立して途絶えないようにする。」(「創発」P112)東京でいうならば、神田神保町に、渋谷に、池袋に、そして新宿に書店が集まってくる状況を、だからぼくは是とする。ただし、是とするためには、「アイデアや財はなめらかに流れ」なければならないだろうとも思う。それゆえに、書店間の交流、情報交換の必要性を述べ立てるのだ。

 ジョンソンは、「創発」を生み出すポテンシャルとして、「ご近所に注意を払え」(P78)という。そのひとつのありようとして、遺伝子を共有しながら分業的なはたらきをする細胞を例に取る。「細胞はDNAの命令にしたがう以上のことをする。細胞は隣近所から学ぶのだ。そしてその局所的な相互作用なしには、遺伝子コードのマスタープランはまるで役に立たなくなる。」(P85)「一種の微視的な群集心理とでも言おうか。細胞はご近所を見渡して、それがみんな、鼓膜作りや心臓の弁作りに精を出しているのを見たら、その細胞も同じ仕事に乗り出すことになる。」(P87)

 書店員にとって「ご近所」は二種類ある。一つは、社内の仲間である。同じ店の中の他ジャンルの書店員、チェーン店であれば他支店のスタッフ、そうした「ご近所」を参照して仕事をする時、それはその書店の特色を「創発」することになるだろう。

 一方、参照が他支店のスタッフに及ぶならば、例えば同地域の他社にまで及ぶこともあり得るだろう。その時には、そうした参照は、地域の書店群の特色を「創発」する。神田神保町が、その好例である。

 青田恵一氏がいうとおり、「書店とは、ジャンルをテナントとした本のショッピング・センターだ。そのノウハウも、どちらかといえば、書店というより、各ジャンルに所属している。したがって、ノウハウ力を維持・拡充するためには、ジャンル単位でのマニュアルが必須となる」(「書店ルネッサンス」P174)」のだから、ジャンル単位での交流は、地域の枠をも越境するだろう。そうした重層的な参照、交流のありようを、ぼくは心底から肯定、推進したいと思う。


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 先月、ジュンク堂書店池袋本店のトークセッションの講師をつとめてくださった山本真司さんの言葉は、ぼくたち書店人に大きな勇気を与えてくれるものだった。

 山本さんは、東京銀行時代に大学経営大学院でMBA取得、ボストン・コンサルティング・グループを経て、1997年A.T. カーニー入社。15年に及び日本企業に変革支援のコンサルティングをほどこしてきた。著書に「会社を変える戦略」(講談社現代新書)、「儲かる銀行をつくる」( 東洋経済新報社)、「40歳からの仕事術」(新潮新書)、「30歳からの成長戦略「本当の仕事術」を学ぼう」(PHP研究所)等がある。有限会社山本真司事務所を2005年4月に立ち上げている。

 そんな経歴を持つ山本さんが、最後に聴衆に向かって、こう言った。

 「次に何をしようかを考えるとき、私は必ず書店に行きます。書店に並んでいる本の中に、必ず自分が進む道を選ぶヒントを与えてくれるものがあります。」

 書店でのトークセッションだった、ということを割り引く必要はあるかもしれない。トークの場を提供し、そもそも著書を販売している書店に対する表敬の意味もあったろう。だが、山本さんの言葉に嘘はない、とぼくは確信した。ぼくと山本さんは、生まれ年は一年違うが同じ学年であり、同世代であるがゆえの感性の共振を、直感したのだ。

 書店人としてのぼくの理想の書棚は、山本さんの言葉そのものだった。ジュンク堂に入社して6年後、人文書担当者として京都店に赴任したときに目指したのが、たとえば哲学科の新入生が教官に「何を勉強したらいいか、迷っていて。」と相談したときに、教官に「じゃあ、ジュンク堂の京都店に行ってみたまえ。そこに並んでいる本の中に、何か君の興味をそそるものがあるに違いないから。」と言ってもらえる店づくりだった。

 今いる日本最大規模の池袋本店ももちろんそうだが、その5分の1の面積の京都店も、専門書の充実を目指した店だ。そんな環境が、そうした店づくりを目指すことと整合性があったことは間違いないが、一方で売り場面積の大きさだけが必要条件ではないという思いも、最近強くなってきた。

 資料購入予算が極めて限られている図書館分室の新着コーナーのほんの数冊の中に、決定的な出会いがあったりする。昨年9月10月の二度にわたってこのコラムで紹介した紺野登著「創造経営の戦略」もそんな本だった。大規模書店の膨大な在庫量の中では、たとえそこに毎日働いていても、出会えていなかったかもしれない、と思う。

 今回は、「クロネコヤマトの宅急便」の生みの親であり、ヤマト福祉財団理事長を務める小倉昌男氏の、「福祉を変える経営」(日経BP)に出会った。2年前に出たこの本については、店の新刊コーナーに並べた記憶があり、ちょっと気になるタイトルだったが、先日たまたま分室の新着図書のコーナーに並んでいるのに遭遇するまで、そのことも忘れていた。

 「月給一万円以下で働かせていたら、障害者を飯の種にしていると言われてもしようがないのです。その問題を放っておいたら、いいことをやっているのではなく、悪いことをやっていることになりますよ!」(P66)

 障害者福祉について真剣だからこそ、小倉さんはそう言い切る。経済とは経世済民だ、という強い信念がそこにある。

 月給一万円とは、実際に障害者の共同作業所の平均賃金だという。それでは職場ではなくデイケアの場だと小倉氏は指摘し、月給十万円の実現をめざす。それが、ベーカリー、カフェ、木炭づくりなどの業態での小倉氏の実践なのだ。

 「障害者が趣味を楽しめるようなノーマライゼーションの基本、それはやはり彼らがちゃんと働いてちゃんと稼ぐことです。・・・・多少体調が悪かったり、気分が乗らなくても時には我慢して働く。我慢して働くということを教えなければだめだと思う。それが結局は働く喜びにつながります。」(P85)

 「福祉経済というものは存在しません。日本にあるのは資本主義―市場経済だけです。売り手と買い手があって商売をする。これが基本です。
 障害者の施設がつくったクッキーには、『これは障害者が焼いたものです』と入っています。けれども、モノを売るときにそんな言葉は意味がありません。」(P100)

 「いくらモノをつくろうと、売れなければ市場経済においては『意味がない』のです。つくればつくるほど損をするだけです。不良在庫がたまって倉庫代がかさむ一方ですし、そもそも製造コストがすべて無駄になる。だから、つくることと売ることと、どちらが大切なのかというと、市場経済においては『売ること』のほうなのです。」(P116)

 そして、小倉氏は「福祉関係の方々の仕事を見て感じるのは、つくることには一生懸命だけれども、売ることをちっとも考えていない」(P143)と手厳しい。

 昨今随分変わってきたとはいえ、この言葉の「福祉」を「出版」と言い換えても充分妥当するだろう。

 「経営者は常に買い手の論理でものを考える必要がある」(P133)、「『製品』は必ず『商品』にして売らなければ、ビジネスにならない」(P143)と言い切り、福祉の場にも、いや福祉の場にこそ経営のセンスを、と訴える本書に大いに共感したのは、そのせいかもしれない。


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 第三文明社から「図解同窓会へ行こう!」という本が出た。類書がないので、まったく予想が出来なかったが、想像以上に読者の反応は早かった。初回平積み分をすぐに完売し、追加分を出版社の人に直接持ってきてもらった。そんな噂を耳にしてか、この本に関して、先日フジテレビの「とくダネ!」の取材を受けた。

 「ぼくたち40台半ばの世代が、いきなり同窓会の幹事を仰せつかることがある。このくらいの歳になると、ガムシャラにやってきた仕事にも一応の結果が見えてきて、人によっては子供も手が離れてきて、学生時代が懐かしく、また久々に当時の友人に会ってみたいという気持ちが強くなるということもある。面倒くさいなと思いながら結局幹事役を引き受けたり、それまで参加しようとも思わなかった同窓会にふと行ってみようかな、と気紛れを起こすのは、そのせいかもしれません。ところがいきなり幹事役を引き受けても、どんな風に同窓会を運営していいのか、見当もつかない。一度も参加したことのない同窓会に、どんな風に参加したらいいのかさえ分からない。そんなノウハウが書かれたこの本は、意外に待たれていたのかもしれませんね。」収録に先立つ電話取材で、ぼくはこのように答えた。この答えは、ぼく自身の実体験によるものだった。

 ぼくが卒業した兵庫県立長田高校は、体育の時間に1万メートルを走らされたグラウンドのある場所(神撫台)にちなんで、その同窓会を「神撫会」と呼ぶ。卒業生には東京在住の人も多く、「神撫会東京支部総会」が、毎年5月か6月に100名以上の参加者を集めて開かれている。

 卒業後25年目の卒業生が担当する幹事をぼくたちの学年が担ったのは、一昨年のことだった。もともとぼくたちは、「関東長田会」というヤクザの一派とも間違われそうな名の同期会を、関東在住の同窓生で毎年開いており、自然とその中心メンバーが幹事役を引き受けることになった。そのことを覚悟していたぼくたちは、その二年前くらいから総会に参加していたが、自分たちが幹事役を引き受けるに当たって、二つのことを誓った。

 一つは、来ていただいた人たちに満足してもらえる企画を立て、ただ単に同窓生が集まったというだけの会にしないこと。もう一つは、折角の同窓会なのだから、同期だけの交流ではなく、できるだけ世代を越えた交流ができるような環境をつくること。

前者の企画は、“Back to 1974~1977”というクイズ番組だった。ぼくらが在学した時期に起こった事件をクイズ形式で思い出す趣向。講談社の「昭和」の該当時期の巻を図書館から借りてきて、問題を作った。当時の国鉄スト、モハメド・アリVSアントニオ猪木の特等席の値段、流行った歌などの話題で、結構盛り上がった。全員が参加するために、以前から目をつけていた早押しボタンの装置を東急ハンズで買ってきて、秋葉原で安く買った銅線を繋いで会場に分散していた各テーブルまで延ばした。

それぞれのテーブルには、出身中学の地域別に分けられたチームが配されていた。それが、世代を越えた交流を目論むぼくたちの、もう一つの工夫だった。

幹事役が回ってくる前二回の参加で、どうしても同期が集まってしまう光景を目にしていた。そのことには、理由がある。同世代同士には共通の話題が多いからである。その共通性に拮抗して世代を横断させる別の共通性、それは地域性しかない、と思った。

もちろん、単に地域別にしただけではない。それぞれのテーブルに幹事回生、つまりぼくらの同期生を司会役として配し、開会の前にその役割について因果を含めていた。その司会役の奮闘もあって、地域別の各テーブルの歓談は大いに盛り上がり、クイズ番組開始までには、それぞれのテーブル=チームの一体感が生まれていた。クイズの企画が盛り上がった所以である。

地域別に集まってもらう企画を、ぼくらは「イッツ・ア・スモール・ワールド」と名づけた。その時にはBGMとして「ちいさな世界」を流した。原曲は“It’s a small world”である。

同窓会誌への報告の原稿を書いた日に、近くの幼稚園の横を通った時、園児たちが「ちいさな世界」を演奏していた。その偶然を、後日の打ち上げで報告した。そして最近、「スモール・ワールド」について書かれた、実に刺激的な本に出会った。

ぼくらが目論んだのは、地域を限定することによって世代を超越すること、そのための「スモール・ワールド」だった。だが、ぼくが出会ったその本は、「スモール・ワールド」を全く逆の意味で唱えていた。世界全体が、たかだか「六次の隔たり」しか持たない「ちいさな世界」だ、というのである。その本が読み解く世界のネットワーク構造の重要なリンク同様、ぼくの同窓会体験とその読書体験は、「スモール・ワールド」という言葉を通じて弱いリンクを持った。

その本とは、草思社の「複雑な世界、単純な法則」である。


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 六次の隔たり」という言葉がある。1960年代、心理学者スタンレー・ミルグラムが、ランダムに手紙を送りつけながら、最終的に一人の友人に辿りつくように設定した実験で、ほとんどの手紙が六回前後の投函で目的の相手に届いたのだ。世界は想像以上に「スモールワールド」だった。

 「複雑な世界、単純な法則」(マーク・ブキャナン著 草思社)はその事実を、「グラフ理論」という数学の方法を使って説明していく。そのネットワーク論の射程は、食物連鎖、疫病の蔓延、インターネット、「富めるものがますます富んでいく」経済社会、脳のニューロン・ネットークにも及ぶ。うまく機能しているシステムは、言い換えればこれまで生き残ってきたシステムは、すべて「スモールワールド」の特徴を持っているのだ。

 たとえば、脳のニューロン・ネットークについては、次のように語られる。「もしも情報を伝達するのにニューロンとニューロンのあいだをつなぐ何万もの段階が必要だとなると、反射的な反応には実際よりもはるかに長い時間を要してしまうだろう。スモールワールドのパターンは、脳のさまざまな機能部位を互いに数段階の隔たりのところに位置させることで、ネットワーク全体が一つの緊密なまとまりをもった単一体になるのを確実なものにしている。」(P100)ここにわれわれ人類の存続の秘密、意識の発生の謎を解くカギがあるかもしれない。

 人は、否あらゆる生命あるものは、他者とのつながりなしには存続できない。だからこそ、世界はスモールワールドなのであり、ネットワーク論は端的に存在論なのである。そしてそのことこそ、「複雑な世界」が「単純な法則」で説明できるゆえんでもある。

 他者とのつながりには、自ずから強いものと弱いものがある。強いつながりは「クラスター」を形成する。「友だちの友だちは、友だちである」場合が多いのだ。それは、文字通りひとつの「スモールワールド」を形成する。前回述べた「同窓会」などは、その典型かもしれない。

 しかし、世界全体をスモールワールドにしているのは、それとは逆の「弱いつながり」だということを、「グラフ理論」は明らかにする。

 「なぜこれが逆説的かというと、強い社会的絆はネットワークを一つにまとめるきわめて重要なリンクのように思えるからである。しかし、隔たり次数に関しては、強い絆は実際のところ、まったくといっていいくらい重要ではない。グラノヴェターがつづけて明らかにしたように、重要なリンクは人々の間の弱い絆のほうであり、特に彼が社会の「架け橋」と呼んだ絆なのである」。(P60)「社会的世界の長距離の架け橋である弱い絆は、たとえごく小さな割合しか存在しなくても、隔たり次数に大きな影響をおよぼすのだ。さらに重要なことに、なぜ世界は狭いのかだけでなく、なぜわれわれがたえずそのことに驚きを覚えるのかについても、理由を明らかにしてくれる。結局のところ、長距離を結んでいる社会のショートカットは、世界を狭いものにしているにもかかわらず、ふだんの社会的暮らしのなかではほとんど気づくことがない。」(P83

 わかりやすい例で言うと、「グラノヴェターの聞き取り調査では、対象者のうち十六パーセントが「しょっちゅう」会っている人のつてで仕事を得たのに対し、八四パーセントの人は「時たま」あるいは「ごくまれに」しか会わない人のつてで就職していた」(P65)のである。

 もうひとつ重要なのは、次のことだと思う。

 「どうやらスモールワールド・ネットワークには二つの類型があるようだ。すべての要素がほぼ同数のリンクを持っている平等主義的ネットワークと、リンク数に大きな差があることを特徴とする貴族主義的ネットワークである。」(P189

 「貴族主義的ネットワーク」としては、インターネット、ワールド・ワイド・ウェッブ、人々のあいだの性的接触によるネットワーク、引用でつながっている科学論文のネットワーク、論文の共著でつながっている科学者のネットワーク、英文中に前後して出てくることでつながっている単語のネットワークなどが挙げられる。その特徴は、極端に多くのリンクを貼るハブ、すなわちコネクターが存在していることである。経済の世界で、「金持ちほどますます豊かになっていく」構造もこの種のネットワークと関係している。

 一方、「平等主義的ネットワーク」として挙げられるのは、線虫の一種のニューロンのネットワーク、人間の脳のネットワーク、国じゅうをくまなく走っている道路や鉄道の路線網、アメリカの電力網などである。

面白いのは、「貴族主義的ネットワーク」を支えるハブがそのリンクを増やしていくと、いずれある臨界点に達し、「平等主義的ネットワーク」に転換せざるを得なくなることである。分かりやすい例えは、世界中の都市とのリンクを目指すハブ空港が、やがて遅延や欠航の増加を余儀なくされるという状況だ。「この状況は、他に類を見ないほどの金持ちであっても、いずれは、それ以上豊かになるのが難しくなる時期がやってくることを示している。」(P196

 大げさに言えば、人類の政治形態の変遷の理由を示唆しているともいえまいか。生命現象として最も進化しているといってもよい人間の脳のネットワークも、「平等主義的」なのだ。

 一方で、「貴族主義的ネットワーク」を支えるクラスターの存在意義も看過してはならない。

 「クラスター化は、社会という織り地をきめの細かいものにするのに寄与し、社会資本の形成を可能にする。そして、この社会資本が今度は、決定を下すさいの効率性を高める。」(P336)からだ。が、「同時に、弱い絆のほうは、コミュニティがどれほど大きなものであろうと、すべての人がコミュニティの残りの人たちと社会的な意味で身近な状態になっているのを保ち、そうすることで、だれもがより大きな組織がもつ情報や財産を利用できるようにしている。」(同)だからブキャナンは、「社会的な事例では、スモールワールド・ネットワークは、クラスター化と個々のクラスターどうしを結びつける弱いリンクがともに有効に組み合わされているように見える。」「おそらく、組織やコミュニティは、スモールワールドの線に沿って意図的に作るべきなのだろう。」(同)と結論づけるのだ。

 さて、このことを出版=書店業に牽きつけて考えたらどうなるか。

 クラスターは、個々の出版社、書店の企業内の構成員同士の強い結びつきが形成していると言っていいし、またそうあるべきであろう。それぞれの企業文化の独自性こそが、「社会という織り地をきめの細かいものにするのに寄与し、社会資本の形成を可能にする。そして、この社会資本が今度は、決定を下すさいの効率性を高める」からだ。

 その一方で、「弱い絆」の存在意義も重視すべきだろう。われわれはさまざまなネットワークを通じて、本を読者に届け、そのことで新たなネットワークの形成に寄与しているのだと思いたい。企業の垣根を越え、情報・意見交換に出向くことの大切さ、そうした場を作り出すことの重要性の根拠は、ここにある。


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 ジュンク堂書店池袋本店の2005年上半期のベストセラーを調べてみると、第一位は、「これだけは知っておきたい個人情報保護」(岡村 久道 著 鈴木 正朝 著 日本経済新聞社 税込525円)である。2003年5月に可決された「個人情報の保護に関する法律」(個人情報保護法)が今年4月に全面施行されたからだ。

 企業関係のまとめ買いも多く、例えば文芸書のベストセラーと比較することが妥当かどうかはともかく、時代状況を如実に反映していることは確かだ。われわれ書店人も、「関連商品がよく売れてよかった」と浮かれている場合ではなく、客注、定期、配送などで多くの個人情報を得ていることを自覚し、新しい法律に適応していかなければならない。実際、各書店、それぞれにマニュアルを作成し、対応されていることと思う。

 その時に一番重要なのは、その法律の趣旨が何なのか、ということである。「個人情報の保護に関する法律」第一条(目的)は、次のとおりである。「この法律は、高度情報通信社会の進展に伴い個人情報の利用が著しく拡大していることをかんがみ、個人情報の適正な取扱いに関し、基本理念及び政府による基本方針の作成その他の個人情報の保護に関する施策の基本となる事項を定め、(中略)個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護することを目的とする。」

 のっけからこの法律は、「高度情報通信社会の進展に伴い個人情報の利用が著しく拡大している」事実を前提とし、「個人情報の有用性に配慮し」ているのだ。個人情報を入手し、個人データを作成してそれを活用することが禁止されているわけではまったくない。そもそもこの法律は、役所や企業から漏洩された膨大な個人データの漏洩が、本来の使用目的とは違う目的で、元のデータ所有者とは違う主体によって使用されたことから、要請されたものなのだ。喩えていえば、道路交通法が自動車の運転の際の取り決めや制限を課すもので、自動車の取得や運転を禁止するものではないのと同様、個人情報保護法も、個人情報の取得や個人データの作成、それらの利用を禁じるのではなく、その利用方法にルールを設けるものなのだ。そのルールとは、一言でいえば、個人情報、個人データの活用の際に、「当該個人情報が帰せられる主体」の同意が常に必要とされるということである。

 ぼくには、われらが書店・出版業界は、この法律を恐れるよりも、われわれの業界の実態はこの法律の適用がそもそも不要であることを恥じるべきではないかと思われる。客注、定期をはじめ、日々の販売実績には、顧客のさまざまな情報―具体的な生活スタイルから内面的な部分までを保有、活用する余地が大いにある。しかしこれまで、そうした活用の試みさえ、有効になされたことはなかったのではないか。少なくとも業界の中に、それを有意な形でシステム化しようという努力はなかったように思う。「マーケティングの感覚がない」と揶揄される所以である。

 『個人情報保護法の知識』(日経文庫)の中で、著者岡村久道氏はこう書いている。

 「詳細な顧客情報を大量に収集・蓄積していること、そしてそれを利用しやすいようにデータベース化していることは事業者の「情報資産」として、これまで高く評価されてきました。

 ところが、個人情報保護法によって以上のような思い義務を負わされることになり、今では「負の遺産」と揶揄されることすらあります。」(P58

 そんな「負の遺産」を、やればできた筈のぼくたちはさぼって作ってこなかったというべきではないか。「だからこそ『個人情報保護法』など恐くはないのだ」と嘯くことを、ぼくらはむしろ恥としなければならないのではないか。

 ぼくは、最初、サンパル店というとてもひまな店にいて、客注や定期カードから、せっせと個人情報を集めていた。専門書を中心に扱っていたこともあって、コツコツ拾い集めた顧客リストは、結構有効だった。顧客の嗜好に合わせて、新企画のパンフレットや図書目録を送付した。そのことで、顧客との関係を深めていった。京都時代も初めのころはその作業を続けていた。そのうちに忙しさに紛れて(この言い訳こそが、ぼく自身もっとも恥じるべきことである)、中断してしまった。

 そのリストに注目してくれた出版社の営業マンもいた。自社でDMを出したいからリストをくれ、と言う。ぼくは断った。ありがたい申し出だったが、ぼくが作成したリストである以上、ジュンク堂書店福嶋の名前で送らないと筋が通らない。相手は、知りもしない出版社からのDMが何故送られてきたのか、不信感を持つだろう。それは嫌だ、と言った。その企画については、DM数に応じた切手を出版社に送ってもらい、ジュンク堂の封筒で送付した。

 その感覚が「個人情報保護」なのではないか、と思う。不当な利益はもちろんのこと、そうしたものが一切なくても自分が取得した「個人情報」を、その主体の了解なしにみだりに他者に譲り渡さないこと、それが肝要なのだ。そんな情報そもそも持ってないから、個人情報保護法なんて恐くない、ラッキー、ではいけないのである。そうした情報を持ち、かつ活用し、それを相手に不快に思わせない状況づくり、それが商売なのではないだろうか。

 『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社)で、森達也は、モザイクを使わないことを了承してもらえるような関係性を被写体との間につくりあげることこそ、ドキュメンタリー製作において最も重要な仕事だ、と語る。売り手と顧客の関係も、同じだと思う。


(52)

 922日(木)、神戸大学附属図書館プレゼンテーションホールで開催された兵庫県大学図書館協議会研究会(テーマ「資料・情報を読者へ−書店から学ぶこと」)に、発表者の一人として参加した。「共演者」は、旭屋書店外商部の湯浅俊彦氏と、紀伊國屋書店の小澤 利彦氏。そもそもこの会にぼくを紹介してくれた湯浅氏との久々の「コラボレーション」が楽しかった。湯浅氏は1991年に刊行されたぼくの最初の著書「書店人のしごと」に、最も早く応答、批判してくれた人である。そして、後にぼくが仙台へと去るまで、共に「書店トーク会」という勉強会を主宰した仲でもあった。

 「書店人のしごと」は、当時まさに「萌芽」の状況にあった「書店SA化」、すなわち書店業務へのコンピュータ導入について、その可能性を「手探り」する本であった。いまだポスレジも導入されていない当時としてはまさに「机上の空論」であったが、湯浅氏はすぐさまぼくの「楽観性」を突いてきたのであった。「機械化は、決して書店の窮状を救わない」と。

 それに対しぼくは、自分は決して機械化万能論者でない、しかし機械にできることは機械に任せた方が書店人によりクリエイティヴな「しごと」の可能性を広げる筈だ、と反論した。手紙のやりとりや面と向かっての湯浅氏との議論は、97年刊行の「書店人のこころ」として結実する。そこでのぼくは、「SA化」の掛け声で安易にやってはいけないことを、むしろ強調していた。

 振り返れば、時代の変化の速度は予想を大きく上回っていた。ポスレジやシステムの進化は、まるで大津波のように、二人の「原理論」を呑みこんでいった。今や書店のポスレジは当たり前であり、インターネットを介してさまざまな情報に瞬時に接することもできる。15年前には想像もできなかった状況に、書店は今ある。

 コンピュータの書店現場への導入は不可避な選択だというぼくの予想は、確かに現実化している。その意味で、ぼくの予言は当たった、と言える。一方湯浅氏は、15年前に日書連が標榜していた「バードネット」というシステム構想について、そのようなものでは中小書店が生き残っていく武器にはならない、と警鐘を鳴らしたのだという。実際、その後日書連の中核をなす中小書店の多くが転廃業を余儀なくされる状況に陥った。湯浅氏の予言もまた、当たったのである。

 思えば「バードネット」については、ぼくも「書店人のしごと」の中でかなり批判的に検証している。ぼくと湯浅氏は、当初から同じ峠に立ちながら、正反対の方向を見ていただけかもしれない。いや、同じく上り下りの激しい前方の山道を眺めやりながら、ぼくは稜線を、湯浅氏は谷の部分を、より注視していたというべきかも知れない。

 研究会当日、オーディエンスとして参加されていた同志社大学図書館の井上真琴氏を、湯浅氏に紹介された。井上氏は、携えていた自らの著書「図書館に訊け!」(ちくま新書)を下さった。氏の仕事柄、「図書館に訊け!」と提案(命令?)する対象は大学生たちであり、研究生活の中で図書館を有効利用することがいかに重要かということが、資料検索の具体的な事例を紹介しながら、説得的に書かれている。

 テーマとなっている図書館員の「レファレンスワーク」と、われわれ書店人の「本を売る」という仕事は、確かに違う。しかしどちらも読者と本を出会わせるという意味ではまったく共通している。書店人の接客術におけるスキルアップのために、図書館員の「レファレンスワーク」に学べる部分はおおいにあると思う。

 実際、店頭で「レファレンスワーク」に近いことを要求されることはあるのである。「〜について知りたいのですが、何かよい本はありませんか?」そうしたお客様のご要望に対し、「われわれ書店員は、商品名を特定していただかないと、探せません。」と答えるしかないとすれば、ぼくたちの仕事はいかにつまらないものか。図書館員が駆使するという「レファレンス・ブック」、それが商品として店頭に並んでいる場合もあるだろう。使わない手はない。インターネット空間の検索エンジンも、今や力強い味方となる。

 個々のスキルアップは読者だけのものではない。図書館員にとってもそうであるように、書店人にとってもそうなのだ。必死で調べることによって、商品に対する感性は必ず増す。

 「プロセスでの実践と苦労は、単なる探索技術向上にとどまらず、あなたの勘や感性を育てる。耳を澄ませば、資料や情報が醸し出す「ざわめき」が聞き取れるようになり、目を凝らせば、的確な資料が視界に飛びこんでくるようになる。」(「図書館に訊け!」P170

 「あなた」は、さしあたり大学生や研究者をはじめとする図書館利用者あるいは図書館員であろうが、「資料」や「情報」を「商品」と読み換えれば、書店人にも大いに当てはまる。

 井上氏は一方、「(本の)並べ方一つで、次の世界へと人を導いていく仕掛けを提供することが可能なのだ。並べられた本同士が共鳴しあうわけである。」(同P116)、「よい古書店では、棚を眺めているだけで発見がある。棚にさしてある本自身が、新しい世界への扉をひらく一種の「索引」に見えてしようがないのは、私ひとりではあるまい。」(P31)と言い、エルンスト・カッシーラーがヴァールブルクの書庫を訪れた時、「カッシーラーは、自分が研究する象徴・シンボルの領域を、未知の人物ヴァールブルクが『著作によってではなく複雑な図書体系で網羅している』目のあたりにし、衝撃を受けた」エピソードを紹介する(P117)。また、齋藤孝氏の「図書館には実に様々な本がある。しかし、上手に分類されている。型どおりの分類かもしれないが、読者の初心者には、本の世界がどのような広がりをもっておるのかを把握するには効率がいい」(『読書力』岩波書店)という文章を引く。(P118

 ぼくには、それらがそのまま、書店へのエールであり、叱咤激励と読める。


(53)

 前回も紹介した、長年来の盟友であり論敵の湯浅俊彦氏から、新著「出版流通合理化構想の検証 ISBN導入の歴史的意義」(ポット出版)をご恵送いただいた。

 日頃慣れ親しんでいるもの、あるのが当たり前のように感じられているものは、時としてそれが最初からずっと存在していたものであるかのような錯覚を与える。大きな話ではたとえば近代国家=国民国家がそうだが、われわれの身近でも、ポスシステムなど今では完全に書店の日常業務に入り込んでおり、もうずっと以前から存在していたかのように感じられる。そのポスシステムを可能としたISBN(国際標準図書番号)も、今では書籍に付いているのが当たり前のものだが、日本への導入は1981年、今からたった25年前のことだ。導入時の経緯・葛藤を、残された資料から丹念に拾い上げ、整理してまとめたのが、今回の湯浅氏の本である。

 ISBN導入の発端は、1976年に日本で国際出版連合大会(IPA)が開催されて国際交流が進み、国際標準図書番号機関(International ISBN Agency)や国立国会図書館から、ISBNの導入の勧告や要望がなされたことにある(「出版流通合理化構想の検証 ISBN導入の歴史的意義」P17)。日本においては、まず図書館界からの強力な働きかけがあったのである。それは、図書館にとっては、「出版情報を的確に把握できるということは図書館にとっては利用者への資料提供が円滑になり、それこそが市民の知る権利を保障し、民主主義の礎になる」(同P61)からであり、日本図書館協会理事の森崎震二は、「元副館長中井正一の理念がここに実ったかにさえ幻想する者がいても不思議ではない。」(同P20)と述べている。中井正一こそ、全国の図書館の本のカードを一つのところにあつめるところの“ユニオン・カタローグ(綜合目録)”を構想、希求した当の人である。

 働きかけられた側の出版業界は、「ISBN導入を機に『出版資料情報センター』を中核とする出版流通合理化を実現しようとした」(同P51)一方、出版流通対策協議会などの強い抵抗・反対にも遭った。いくつかの反対理由の第一は、「国家が出版情報を一元的に管理することによって戦前のような思想統制の道具にするのではないかという見方」(同P61)である。それはまた、「図書館の貸出業務がコンピュータ化されることによって個人情報が国家に管理されるのではないかという危惧」(同P74)にもつながっていく。

後者の危惧に対して日本図書館協会は、「貸出に関する記録は、資料を管理するためのものであり、利用者を管理するものではないことを前提にし、個人情報が外部に漏れることのないコンピュータ・システムを構成しなければならない。」(同P75)と応じている。今日の「個人情報」をめぐる議論は、この頃すでに始まっているのだ。

一方、「出版販売額全体のうちのわずか1%に満たない資料購入費から見て、図書館界から出版流通に関して出される意見は不幸なことに大きな影響を与えるまでには至っていない。コンビニエンスストア業界が1980年代から雑誌コードや書籍JANコードを出版物に表示するように要請してきたことに対する出版業界の敏速な対応を見ればその差は歴然としている。」(同P58)という背景もある。このことは、日本の出版業界と図書館界の関係を見る上で、押さえておかれるべきだと思う。裏返せば、出版業界と図書館界が、今とは違った関係を築き上げる余地があるということなのだ。そうした背景は、ISBNやバーコードの付与が前提となるPOSシステムが「コンビニエンスストアによる出版物の取扱いとそのことがもたらす書店経営の危機」(同P116)をもたらしたこととも、大いに関連する。「もともと日本図書コード管理委員会が事務レベルで『書籍JANコード(バーコード)』の研究を始めたのは、1985年にPOS管理にバーコードを最大限活用しているコンビニエンスストアからの要望に対して、新潮社などの大手出版社が対応を迫られたから」(同P126)なのだ。こうした経緯を冷静に見つめれば、書店業界が図書館界を“仮想敵”と見なすことが大きな方向違いであることは明らかだということを、改めて主張しておきたい。

 本書の目的として湯浅氏は、「1980年代に大論争を巻き起こした「日本図書コード」導入問題を、書誌情報・物流情報のデジタル化というその後の史的展開の前史と位置づけ、日本における出版流通合理化に与えた影響を検証する。」と、巻頭で述べている。また、ジュンク堂のPR誌「書標」に寄せてくださった「著書を語る」によると、「これから本格化するであろう電子出版の時代を前に、紙の本の書誌情報・物流情報デジタル化の歴史的意義をきちんと考えようという企て」である。

 書誌情報・物流情報さらにはコンテンツそのもののデジタル化は、出版・書店業界に大きな変化をもたらした。そこには、思いもかけなかったような事態もあった。今後の展開については、更に誰にも予想はできない。

出版業界のインフラである書誌データの共有を目指すJOP(日本出版インフラセンター)が立ち上がり、書籍のICタグの検証実験もはじまった今、歴史的経緯を地道に考察する湯浅氏のような仕事が、大いに参照されるべきであろう。


(54)

 3回前(51)にも書いたように、昨年4月の「個人情報保護法」全面施行は、出版・書店業界を含めてほとんどの業界が対応に追われた「一大事件」だった。ところが、施行に前後して「個人情報保護法」対策マニュアルは次から次に発行されたが、「個人情報保護法」そのものの是非を検証する本、施行後の状況やその問題点について書かれた本はまったく出てこない。成立前に多くの言論人がさまざまな問題点を挙げて法案に反対していたことを考えると、実に不思議だった。

 その疑問を、『宣言2003年春 個人情報保護(修正)新法案を拒否する!』(吉岡忍起草 以下『宣言』と略記)を出した「共同アピールの会」のメンバーの一人にぶつけてみた。「施行後に、なぜ『宣言』の続編が出ないのですか?というよりも、『個人情報保護法』そのものの是非を問う議論が全くといっていいほど、消えてしまった。まさに『喉元過ぎれば・・・』ですが、問題は何ら解決したわけではないでしょう?」

 「新聞社や出版社が一応規制対象から外れたことが、大きな理由かもしれない。」というのが彼の答だったが、しかしそれでは、言論界は自らの使命を果たしているとは言えないのではないか。法律の拡大解釈や過剰適応によって混乱に陥っている現場は、決して少なくないと思われるからだ。

 11月末に刊行された『個人情報はこう変わる』(牧野二郎著・岩波書店 以下『こう変わる』と略記)は、ぼくが知るかぎり、法律施行後に「個人情報保護法」を批判的に検証した唯一の本である。その中で、やはり危惧されたとおりの、時にはそれ以上の事態が発生していることが報告されている。

 “私が驚いたのは、小学校でクラスの名簿を作らない、緊急連絡網を作らない、という実態です。いったい子どもたちはどのようにして友たちを作るのか、近所の子供を探し出すのはどうするのか。年賀状を出すことも困難になり、子供のグループ化が進んでしまい、新しい友だちを作る機会が失われていくでしょう。(中略)大学の事務方は、卒業生の情報を学生に教えてはならないといいます。(中略)学生は社会で活躍する卒業生をどのように知るのでしょうか。”(『個人情報はこう変わる』P43 “極端な議論として、教員が指導に際して、クラスの出席者を当てて、名前を呼ぶことが違法だ、というものがあります。名前は個人情報なので、本人の同意がない限り、第三者に提供してはならないというのです。”(同P48

 第一に、こうした誤解・曲解を正していくことが必要なことは、言うまでもない。情報は活用されてこそ価値があり、そのことは「個人情報保護法」も、前提としている(第一条)。

 さらに進んで、この法律の持つ問題点を、もう一度洗い出す必要もあるだろう。成立前に指摘されていた問題点は、決して改められたわけではないのだから、「新聞社や出版社が一応規制対象から外れた」からといって、議論が終息してしまうのはおかしい。

 そもそも「個人情報保護法」は、“わが国で初めて「個人情報」という概念を定立した”「デザイン法」である。(『こう変わる』P109)“もともとこの法律は基本法・理念法として検討されてきた。コンセンサスを図り、理念を明確にするのが先決だとの合意だった。その後の事業規則は実務的観点からの検討を経て、個別法として制定すると説明されてきた経緯もある。しかし、基本法であるとの約束は、いつのまにか反故にされ、知らぬ間に全事業体を規制する包括的個別法としての法案となった。”(『こう変わる』P170

  “現実はリアルなものであり、具体的なものだ。そして、それ以上に、ひとつひとつが特殊なものである。金融信用業界ではDNAサンプルは扱わないし、医療業界には与信限度額顧客情報は必要ない。電気通信業界が刻々と蓄積していく通信記録も、医学研究者には無価値だろう。そうである以上、それぞれの分野で、個人情報がどう収集され、どのように利用されているのか、その実情に合わせて法律を作っていくのでなければ、私たちの個人情報は決して保護されない。私たちが「個別法」にこだわり、個別法こそが実効的な個人情報の保護法制にはふさわしい、と考える理由がここにある。”(『宣言』P59

 「個人情報保護法」は、あくまで「基本法」であり、実際に具体的な状況に適用されるには、さまざまな領域における「個別法」の制定が、成立の経緯からいっても、現実社会における実効性からいっても、不可欠だったはずなのだ。だが、施行後、そのことについて議論が高まった形跡はない。そして、「個別法」についての議論が棚上げにされてしまったがゆえに、「個人情報保護法」は、「包括法」として「猛威」を奮う。先にあげた過剰反応による悲喜劇は、こうしてもたらされたと言える。

 “すでにこの国は高度や産業社会、複雑な情報社会となり、個々人の基本的人権の意識もそれなりにあり、そこに電子テクノロジーが無数の装置や道具として入り込んでいて、いたるところで個人情報が収集・蓄積・利用されている。一人ひとりをとってみても、一方には自己の個人情報を守りたいと考える〈私〉がいて、もう一方では他者の個人情報を日々使っている〈私〉がいる。このような入り組んだ状況に、包括法形式(国民全体に網をかけ、その上で「適用除外」を設けて、引き算をしていく仕組み)の個人情報保護法をかぶせていくことが、果たして役に立つだろうか。いや、役立たないだけならまだしも、かえって有害となるのではないか。”(『宣言』P51)それは、“統治機構の中心軸が、住基ネットや個人情報保護法制を、あるいは有事法制などの問題をつうじて、監視や危機管理や治安維持という強制力に裏打ちされた権力行使へと移行していく”ことへの危惧であり、その“過程が、どれほどくっきりと見え、認識されているか。民主主義や権力という言葉をふだんの仕事の中で使えるかどうか、そこにマスメディアと表現にかかわる私たち一人ひとりのセンスと力量をわける分水嶺がある。”(『宣言』P46

 「センシティブ情報」の扱いについても、問題は残されたままだ。「センシティブ情報」とは、個人の門地や人種、社会的身分や思想信条、遺伝特性や性的指向などについての情報であり、“個人情報の保護法制に先行した欧米や国連などのガイドラインでは、これらセンシティブ情報を集めたり、蓄えたり、利用することをきびしく戒めている”にもかかわらず、“日本の行政部門対象の旧法案にも新法案にも、センシティブ情報の取り扱いに関する規定は何ひとつない。”(『宣言』P33

 そもそも、“現代社会で、個人情報をコントロールして、統制し、必要以上に個人情報が散逸しないようにコントロールできるか、といえば、残念ですが事実上不可能”(『こう変わる』P231)なのであるから、“情報社会で最も重要なことは、「情報を見極め活用するということ」そして「安全に管理すること」の二つであり、かつ、この二つが同時に遂行されなければならない”(『こう変わる』P155)と思い定めることが肝要である。“私たちは、私たち自身が個人情報を使うものであれば使われるものである、という両義性から生まれる矛盾や葛藤や混乱を恐れない。明らかに基準やルールが必要な分野には明快な法律で対処することを求めるが、それ以外の、とりわけ個人の自由と表現の自由にかかわる広範な分野は法律の関与しない、いわば「無法」の地帯に置いておくことこそが生き生きとした暮らしと文化と民主主義の沃野になる、と信じるからである。”という『宣言』(P19)に、全面的な賛意を寄せたい。


(55)

昨年126日(木)、日本出版クラブで行われた「次世代メディアコンテンツ店舗活性化研究会」に参加した。主催は、JPO(日本出版インフラセンター)である。

JPOは、出版業界のインフラとして、統一された書誌データの構築を目的として発足されたが、出版物への電子タグ挿入構想においても、検証実験の中心となっている。経済産業省の「響プロジェクト」から補助金を受けての検証は、すでに3年目を迎え、流通段階でのテストは終了し、今年は店頭での読者サービスを視野に入れてのテストが予定されている。それを経て、今年秋にはコミックから導入していく計画という。

研究会での大きなテーマは、電子タグに書き込む項目の検討である。電子タグにはデジタル情報が書き込まれるわけだが、現行のバーコード等とは違い、個体認識が出来る(=1冊1冊についてシリアルナンバーが振られる)上に、業界全体、各企業、個店で書き込みが出来る余白がある。そこに書き込む項目の設定について、書店現場から広く意見を聞きたいというのが会議の趣旨である。各社に持ち帰り、現場からの意見を吸い上げ、次回(2月16日)に、さまざまなアイデアが持ち寄ることを、宿題として課された。電子タグについてイメージ化すれば次のようになる。  

@

64bit

A

160bit

B

64bit

C          D

224bit

@     セキュリティ用使用領域

A     世界標準

B     電機メーカー使用領域(基本的にICタグの製造番号)

C     出版業界標準使用領域

D     個別書店使用領域

アイデアを求められているのは、CとDの部分である。ISBNとシリアルナンバーはAに書き込まれる。JPOでは、Cに共有書店コード(6桁)、出版社コード(4桁)、取協コード(3桁)を書き込もうと計画している。CとDの領域の割振りは決まっておらず、Dの領域が大きくなればなるほど、各書店サイドで書き込む部分が多くなる。

要するに、個々の商品の属性を情報として付加できるわけであるが、それには「客注」「フェア」や取引条件などが、考えられる。現場からは、発注者、受注者などを書き込み、責任の所在をはっきりさせる工夫が欲しいという意見も出ている。レジを通っていない商品を識別し、万引き防止につなげるシステムも、期待されている。

さて、思いがけず、この件について、看過できない文章に出会った。

“小売りや流通における既存の情報システムを利用できるという点で、坂村(健)式の方がEPCよりもすぐれているといわれている、しかし、トロンのときと同じく、坂村方式は国際標準から締め出されつつある。米国の圧力に屈して日本のオリジナルの技術であるトロンを見捨てた最大の張本人は旧通産省であった。そして、またしても無線ICタグの標準についても、旧通産省の後継者である経済産業省が坂村方式よりも、米国のEPCを普及させようと補助金をつけている。「響プロジェクト」がそれである。”(「帝国と破綻国家」本山美彦編 ナカニシヤ出版P129

先にふれたとおり、JPOの検証実験は、まさに「響プロジェクト」の一環である。わが業界の改革プランも、否応なく国家戦略に巻き込まれているのだ。

“軍部が開発した兵站システム(ロジスティックス)の技術が流通業者、そして製造業者に模倣されるという過程が過去には存在していた。ところが、最先端のロジスティックスは、それまでは軍隊を模倣していたはずのウォルマートによって開発されるようになり、いまでは、ペンタゴンが、本格的にウォルマートに戦場での兵站業務を委嘱するようになった。そうしたウォルマートとペンタゴンは無線ICタグに関して共同行動をとり始めた。この一点に事態の容易ならざる怖さがある。”(P106)と、本山は警鐘を鳴らす。

“人は確実に監視される。なんらかのイベントやコンファレンスに出席する人に入場バッジが配られ、なんの警戒感もなくそのバッジをつけた参加者を、情報当局は、参加者の行動を苦もなく把握できる。”(P112)“RFIDが人間の監視を伴うシステムに転化するのではないかとの危惧が現実のものになった。二〇〇四年七月、「連邦医薬品監督庁」(FDA)がフロリダ州パーム・ビーチに本拠を置くRFIDのタグ生産メーカー、ベリチップに対して、同社製タグを病院の患者の皮膚の内部に注入して患者を特定することを認めた。すでに、この会社製のタグは七千個販売され、うち、一千個が人体に埋め込まれたという衝撃的な事実も報告されている。”(P116

こうなると、ことは穏やかではない。

そもそも、例えばインターネットもアメリカの軍事戦略から生まれたものであり、ことさらにその事を言挙げし、現在進行中のJPOのプロジェクトの邪魔立てをしようとは思わない。それは、建設的ではないし、また不可能だろう。ただ、流通改善、読者サービスを期しての業界挙げての取り組みが、知らず知らずのうちに「帝国」のグローバル戦略や「監視社会」へ荷担する危険性を自覚した上で、慎重に議論を重ねる必要があることは、間違いないと思う。


(56)

 「ブックハウス神保町」での「電子タグ検証実験」に参加した。午前10時に集合、講談社の永井祥一氏が司会・案内役をつとめ、ブックハウス神保町吉永祥三店長、システム開発を担当したメーカー担当者の概略説明のあと、二手に分かれて実際に電子タグの店舗での実証実験を体験、説明を受けた。実験と言っても既にブックハウス神保町では日常的に提供されているサービスであり、活用されているシステムである。再度集合して、質疑応答が開店時刻の11時を少しずれ込む時間まで続けられた。

 参加した我々が見聞した実験は、次のようなものであった。

 まずは、店舗の隅におかれたKIOSK端末。その台に商品を載せると、ディスプレイにさまざまな関連情報の項目が現れ、選択することができる。実験では、「名探偵コナン」が使われ、試読(シュリンクのため中身を見ることのできない商品のコンテンツの一部紹介)や、劇場映画の予告編などが流れた。関連商品の紹介で、来店者の消費意欲を煽るのも、大きな狙いである。

 意地悪な感想を述べれば、「試読」は、シュリンクを破ればもっと簡単にできるし、そもそもコミック売場以外の書店店頭では、シュリンク自体なされていない商品がほとんどだ。例外的な商品であるタレント写真集などは、買って帰らないと中身を見ることができないからこそ売れるともいえる。一方、CDがパッケージされた語学書の試聴などは、有効であろう。

 書籍の場合、商品そのものに含まれない情報が、KIOSK端末のコンテンツとしては有効だと思う。(これは、ぼくがPOPに要求する属性と同じである。いみじくも書店員の手書きPOPの画像も、コンテンツの候補として採用されていた。)受賞履歴だとか、書評などである。同じ著者の他の作品、同じ問題を扱った書籍、同じ分野の書籍、同じ学派や対立する学派の書籍など、多項目にわたった関連商品を掲示するのもよいかもしれない。

 こうした端末を何台用意すればよいのかということも、書店現場では重要な問題になるだろう。現在、単に書誌データが表示されるだけのタッチパネルにも、客は並んでいる。KIOSK端末のコンテンツが充実すればするほど、一人の客の使用時間が延び、端末前に並ぶ客の列も延び、皮肉にも客のフラストレーションが増大し、トラブルの発生源ともなってしまうという惧れを払拭することはできない。

 アダプタに携帯電話を接触させることによって同じようなサービスを行う実験も行われていたが、KIOSK端末に比べればアクセスできるコンテンツが質量ともに劣ることは避けられないし、やはり上記の問題は共有している。

 一方、バックヤードでは、個体認識による、商品管理の実験が行われている。商品一冊一冊にシリアルナンバーが振られているため、一冊一冊の属性が記録、管理され、その情報をいつでも呼び出すことができる。商品をディスプレイの前の台に置くと、その商品の仕入先、取引条件、販売条件、返品期限、ロケーション、入荷日が、同じISBNの商品(つまりいわゆる「同じ本」)の情報(上記の項目プラス販売日)と共に表示される。これによって、返品、追加発注などの書店員の判断を支援するとともに、仕入先や返品期限の明示により作業の正確化が図れる。

 また、同じISBNの商品に複数の販売条件を振りあてることができることによって、具体的に言えば、「同じ本」でも、再販商品とバーゲン本等の混在が可能になるのである。小学館相賀社長の英断により再販制度の弾力運用を大きな目的として誕生したブックハウス神保町(小学館グループの書籍専門物流会社である昭和図書が直営店として開設)は、こうした実証実験には打ってつけの店であり、書棚には魅力的なリメインダー書籍(概ね定価の半額)が並んでいた。

 ブックハウス神保町では現在、電子タグは、スリップのようなものに装着され、一冊一冊の商品に挟み込まれている。抜け落ちることを考えると、商品そのものに装着することがベターだろうが、いずれにせよ、出版社、製本所などのメーカー段階、取次、書店の流通段階、それぞれのプロセスで必要となる経費(そこには当然「手間ひま」も含まれる)と販売への効果のバランスがもっとも重要なポイントであろう。書物という商品の特性を考えると、電子タグの装着や書き込みのために「新鮮」な商品が店頭に並ぶのに遅れをきたすようなことがあれば、本末顛倒というべきである。

 帰り際に、ブックハウス神保町と電子タグ実証実験の記事が載った「月刊マテリアル フロー 20062号」を購入した。この商品も謝恩本で、定価1575円のところ1200円で販売されていた。清算後、購入特典提供サービスを受けた。スリップ形式で装着された電子タグを電子タグリーダーにかざすと、ディスプレイ上の的が回転し、そこに矢が放たれ、当たりに的中すると図書カードがもらえるという趣向であった。子ども向けには、的の回転の代わりに、動物の乗った自動車レースが展開される。まさにパチンコの発想である。ぼくの場合は、見事に外れた。

 書物購入のほんとうの当たり外れは、その書物を読み終わった時に明らかになるものだよなという思いが、ふとよぎった。


(57)

 「ウェブ進化論」(梅田望夫著 ちくま新書)が、よく売れている。

 「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」を「次の一〇年への三大潮流」と捉え、「Web2.0」と呼ばれるITの現状と展望をわかりやすくまとめた好著である。振り返れば想像を遥かに超えたITの急速な進歩を鳥瞰し、現在の足場を確認するため、特にITに詳しくない(ぼくを含めた)文系の読者が読むべき本だと思った。

 先ずぼくの目を引いたのは、「ロングテール」論である。「ロングテールとは何か。本という商品を例にとって考えてみよう。」梅田は、「第三章 ロングテールとWeb2.0」をこのように語り始める。一年間にどんな本がどれだけ売れたのかを示す棒グラフを作ってみる。縦軸には販売部数取り、横軸には、2004年のベストセラー、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』、『世界の中心で、愛をさけぶ』、『バカの壁』・・・と販売部数順に書目を並べる。横軸を1点ああたり5ミリとし、縦軸を1000冊あたり5ミリとしてグラフを書くと、3年間の新刊だけで、体高10メートル以上だが、すぐに急降下しあるところから地面すれすれを這いながら1キロメートル以上の長い尾(ロングテール)を持った恐竜のシルエットのようになる。それは紙の上には図示できない。

 従来、本の流通の関係者(出版社・流通業者・書店)は、ある程度以上売れる本、つまり「恐竜の首」(グラフの左側)で収益を稼ぎ、ロングテール(延々と続くグラフの右側)の損失を補うという事業モデルでやってきたが、ネット書店はこの構造を根本から変えてしまい、ロングテール論が脚光を浴びた。きっかけは、2004年秋に、アマゾン・コムは全売り上げの半分以上をランキング13万位以降の本(リアル書店「バーンズ・アンド・ノーブル」の在庫が13万タイトル)から得ていると、発表されたことだ。(後に「三分の一以上」と訂正されたが、それでも瞠目すべき割合だ。)いわば「塵も積もれば山」で、一点一点の売り上げが少なくても、ロングテールを積分していけば、長い首も凌駕する、というわけである。リアル書店の在庫負担と違ってリスティングのためのコストが限りなくゼロに近いネット書店だから、それが可能だというわけだ。

 そこには「(≒無限大)×(≒無)=Something」がインターネットの強みだという見方がある。「放っておけば消えて失われていってしまうはずの価値、つまりわずかな金やわずかな時間の断片といった無に近いものを、無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近いコストで集積できたら何が起こるのか。ここに、インターネットの可能性の本質がある。」(P19

 だが、さしあたり、本という商品について「ロングテール」論が成立するのは、ネット書店だけではないと反論しておこう。ジュンク堂書店は、決して「恐竜の首」派ではない。随分前から、ひょっとしたら発祥のころから「ロングテール」派だったと言える。できるだけ多くの点数を揃えて、一人でもその商品を必要としているお客様を待つ、というのが社是であり、戦略だったからだ。そのために、敢えて言えばそのためだけに、池袋本店は日本最大の2000坪の書店となった。「ロングテール」を実現するためである。ジュンク堂はアマゾン・コムと理念を共有しているのである。流通書籍の点数は、(≒無限大)ではない。だから、その全てを一つの空間に収納することは、不可能ではないのだ。

 ぼくは、ジュンク堂池袋本店の現場にいて、「ロングテール」論の有効性を、誰よりも身に沁みて実感している。実際、当店の売上は、即ち利益は、「ロングテール」部分の積分に大きく頼っている。無理して「ロングテール」を維持するために、「恐竜の首」に依存しているわけでは決してない。そうであるならば、『ハリー・ポッター』の売上競争にもっと血道を上げねばなるまいが、その必要があるとは、ぼくは、まったく思っていない。「恐竜の首」派か「ロングテール」派かと問われれば、ジュンク堂は間違いなく後者であり、つまりアマゾン・コムと同じ側にいる。

 だから、『ウェブ進化論』で提示されているのとは全く別の問い方が可能であり、重要なのだ。「ロングテール」派にとって、リアルとネットとどちらが優位か、という問いが。

 在庫負担、在庫するための空間利用のための負担(つまり家賃)について、確かにリアル書店はネット書店に対して不利な条件にある(つまり金がかかる)。「リスティングのためのコストが限りなくゼロに近い」ネット書店は、その点では圧倒的に有利かもしれない。実際に本が並んでいる空間を持つことが、そのためのコストに見合うか否か、が先の問いの言い換えになる。「ロングテール」派としても、リアル書店のアドバンテージはある、というのが、書店現場に立つぼくの答えである。そして、そのアドバンテージを担保するのは、やはり個々の書店人の研鑽・努力であり、それに裏打ちされたレイアウト・空間作りだと思う。

 先日、妻と奥秩父に小旅行をした。事前に、インターネットで多くの情報を集めた。旅館や観光協会のホームページ、訪れた人の感想などを参考にして、プランを立てた。秘湯の宿に格安プランで泊まり、清雲寺の夜桜、長瀞の桜並木、荒川のライン下りと、12日の小旅行としては、効率的な観光ができたと満足している。それもこれも、インターネットのおかげである、本当に便利な時代になったと思う。2日目の昼食も、予めネットで検索して見つけていたそば屋で取った。美味しいそばを充分に堪能した後、長瀞の町を花見散策していて、一軒の魅力的な店を見つけた。「あっ」と思ったのは妻も同じだったようだ。どちらからともなく、「この店、ネットに載ってなかったよね。」と言った。インターネットの恩恵に大いに与かりながら、「やはり実際に行って見ないと分からないことはある。」と思った次第である。

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© Akira    Fukushima
 2007/04
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