本屋とコンピュータ(71)
  

        福嶋 聡 (ジュンク堂 大阪本店)

  大阪駅周辺に点在する書店を巡る「書店めぐりのプロムナード」の模索しながら、地下街のルートをいくつか試してみた。わがジュンク堂書店大阪本店から出発して堂島地下街に出、阪急ブックファースト、旭屋書店本店を目指すとなれば、東北東方面に斜めに横切る最短距離を目指したくなるのだが、そこに立ちはだかるのが、第一〜第四の「大阪駅前ビル」群なのだ。もちろんそれぞれのビルの地下はつながっていて、ブックファースト、旭屋両店のある御堂筋まで行けるのだが、特に夜になるとシャッター商店街の様相を呈し、その間で開いている居酒屋や金券ショップなどを通り過ぎるだけというのも、「プロムナード」の名にはちょっと相応しくないかな、と思ってしまう。

三月末に大阪本店に赴任してから三ヶ月ほどたったある日、思い立って紀伊國屋書店梅田本店に参事役高木正明さんを訪ね、遅すぎる「店長着任挨拶」をした。そして、旧知の高木さんに率直に「書店めぐりのプロムナード」構想を話し、「どうも『大阪駅前ビル』群が『壁』になっているという印象が強いんですよね。」と言った。

「でもな、福嶋君。」と高木さんは返した。「君はそんな昔のことは知らんやろうけど、あのビル群ができたおかげで、あの地域は誰でも歩けるようになったんやで。闇市跡のころは、今みたいに誰でも歩ける場所やなかったんや。」

「じゃ、サンパルが四棟あるようなものなんですね?」「その通りや。」

ぼくが最初に配属された店のあったサンパルビルが、神戸の三宮駅の東側、1982年入社当時もまだ闇市跡の余韻を残した地域に神戸市によって建てられたビルであったことを思い出しながら、納得した。「壁」でありかつ「通路」。なにやら、ポストモダン思想風だ。

 闇市から「駅前ビル」への変遷は、梅田地下街をはじめ大阪駅周辺の開発の牽引者であった田中鑄三氏(紅屋社長、全国中小企業団体中央会会長など、多くの役職を歴任)による『商いからみた梅田半世紀』(なにわ塾叢書 ブレーンセンター 1990年)の「第二回講座 ヤミ市からの復興」、「第四回講座 梅田近代化への道程」で、具体的に語られている。

“私もそこにバラック建ててしばらくしたら、ちょっと来い言うわけですわ。お初天神の境内に連れていかれて、お前、そこどけ言うんですわ。その時分はみんなはじき持っておる。わし、体はちょっと大きいからケンカは負けへんけども、はじきでいかれたらかなわんと思って、いろいろ言うたらね、しまいにだいぶどつかれた。それでも辛抱しておった。何くそと思ってね。それぐらいして、その場はなんとか逃れたら、またあくる日来よる。”(P58)

“まず桜橋に第一ビルを建てようとなったんですけど、私ら今になって思うんですけどね、どっかよそのまねを大阪市がやったんじゃないかと、憶測ですけどね。大阪市はもっとえらいスタッフがおるはずなんです。それがなんかちぐはぐになってしもて。”(P132)

“第一ビルができた時は、全く悪評ですわ。次に第二ビルもでけたんですけど、できる時に片福線がここを通過すると大阪市が言うたんです。それでみなさんが空いたるとこを全部買いたい言うて、高い金を出して買うたわけです。最近ちょっと片福線の話も出ましたけど、今まではぜんぜん話が出ない。ですからみな怒ってしもて、あの中、無茶苦茶になってしもたんですわ。”(P134)何となく、ぼくの「駅前ビル=壁」感に通じるような気がする。

 一方、『大阪人』2007年10月号(「大阪駅前ビル」特集)で、マルビル社長の吉本晴彦氏は、自信を持ってこう言う。“駅前ビルの建設が、大阪駅前全体の再開発を牽引してきた。北ヤードが街開きすれば、大阪駅前はもっと広がる。北ヤードから、大阪駅、ダイヤモンドシティ、西梅田を経て、北新地までつなぎたい。連絡通路を工夫して、歩いて回遊できる街になれば素晴らしい”。「書店プロムナード」構想と通底する。

 本誌では、「駅前グルメ」(これは情報誌としては定番だろう)、「駅前旅行」(多くの都道府県大阪事務所がここにあり、多彩な活動をしていることは本誌で初めて知った)などとともに、「駅前アカデミズム」として「大阪駅前ビル」にある「アカデミー喫茶経営学校」、「大阪市立大学文化交流センター」、「大阪産業大学梅田サテライトキャンパス」などを紹介している。ありがたいことにすでに定員40人が予約で埋まった9月29日の美馬達哉−立岩真也トークセッションを何とか成功させ、ジュンク堂書店大阪本店も、「駅前アカデミズム」の一翼を担いたいなどと、大それた思いを抱いた。

   
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© Akira    Fukushima
 2007/10
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