本屋とコンピュータ(73)
  

        福嶋 聡 (ジュンク堂 大阪本店)

 

 『論座』(朝日新聞社)12月号に「ネット時代の知財戦略」という特集が組まれていた。寄稿者は、山形浩生(評論家、翻訳家)、永江朗(フリーライター)、白田秀彰(法政大学社会学部准教授)三氏である。テーマは著作権。もとより、われわれが扱う書籍という商材に関係が深い。インターネット時代を迎えて「著作権」の概念じたいが問い直されなければならず、その作業は、インターネット時代において書籍とは何か、という問いに否応なく繋がる。

 山形浩生は、“1.なんでもいいからとにかく創作されるものの幅と量が増えること 2.それがなるべく広く享受・利用されやすくすること”が「著作権」の本来のねらいだったはずだという。(P79)だが、「WEB2.0」が謳われる今、“何か作品を作ったら、それをネットで公開するのはそんなにむずかしいことじゃない。もちろんネットにあげれば必ず見てもらえるというものではない。(中略)なまじ世の中に出ないほうが世間も当人も幸せだったとしか思えない代物もたくさんある。でも、そうしたものでも享受してもらえる可能性だけは確実に担保される”(P78)のである。

 白田秀彰は、「著作権」という概念の根拠となる「創作者の利益」を次のように整理する。“a 言論表現の自由が可能な限り保障されること―創作活動にとって損失や責任を負う可能性が小さければ創作に着手する意欲が減退しにくいだろう。b 作品が可能な限り多くの人のもとに届けられること―作品が自由に広く多くの人に届いて初めて、創作者は、公平な評価や経済的利益を受けられる。”文章の質が違うだけで、山形のいう「ねらい」と同じである。“この場合でも、創作者が高い評価や豊かな経済的利益を受けられる保障はない。作品を評価し、創作者に人格的経済的報酬を与える動機は、私たちの自由意思に依存しているのだから、それを法律や制度によって強制することはできない。”(P93)と白田が続けるのも、“ネットにあげれば必ず見てもらえるというものではない。”という山形と同様である。

 つまり、「著作権」は、創作者の経済的利益を直接保証するものではなく、その前提となる「作品が可能な限り多くの人のもとに届けられること」を保証するものなのである。そのために出版活動が、言い換えれば出版社が守られるのである。出版活動をする“事業者には、優れた創作者や作品を発見する費用、作品を洗練し編集する費用、そして複製原版を作成する費用が、副生物を作成する全段階の大きな費用として生じる”(P94)からだ。“言論表現の自由は憲法によって保障されているので、著作権制度はもっぱら作品の流通にかかわるが、そもそも著作権制度の根幹である「権利者に無許諾の複製を万人に禁ずること」、すなわち排他的独占権は、出版社たちの業界秩序を維持する必要から生じたものである。”その結果、「著作権」は間接的に「創作者」を利するに過ぎない。白田は、“その制度の仕組みが、創作者の利益とは直接的に結びついていないのが明らかだ。”(P94)と続ける。

 インターネットのおかげで創作が“真の意味で万人のものとなりつつある”“おもしろい時代”(P78)を迎えた今、むしろ「著作権」は創作にとって邪魔になっている、と山形は言う。

 “著作権は本来は、創作者たちが嬉々として創作活動を行うのを後押しするためにできたものだったのに、それが逆に作用するようになってしまっている。クリエーターたちはますます窮屈な状況に追い込まれている。映画やビデオの作家は、街角の風景を写すたびに各種商標やロゴを避けなきゃならない(欧米のテレビでよくTシャツや防止にモザイクがかかっている間抜けな状況はこのせいだ)。”(P81

 “著作権が延びて収入が長続きすると生活が安定して安心して創作にうちこめる、という創作者たちの変な議論がある。でもふつうは、生活が安定してしまうと人は堕落する。売れてしまってダメになった作家やミュージシャンは数知れない。次の作品をはやく作らないと飯の食い上げだ、という焦りがあったほうが、がんばって作品を作ってくれるインセウティブになるという議論だって十分成り立つだろう。”(P82

 “そんな保護がなくても、みんな勝手に単なる気まぐれで作品をどんどんつくるようになる。それはたぶん、創作活動の民主化ということなのだと思う。ネット上の各種活動が示してしまったのは、人は著作権なんかでインセンティブをつけなくてもいろいろ創作活動を行うのだ、という事実だ。”(P84

 では、「著作権」は、今や無用の長物なのか?言い換えれば、出版社を保護する必要などないのか?そんなことは全くない。創作者が自由に創作し流通させることができるようになったインターネット時代においてもなお、否むしろそうした時代だからこそ出版社のレゾン・デートルが明らかになる。

白田は言う。

“現代のメディア企業は、一般的に見て次のような事業の集合体として機能している。

1 世に周知すべき価値のある創作者や作品の発見

2 創作者の育成、作品の洗練整理

3 複製物作成販売のための事業計画と資金調達

4 世に周知するのに十分な数の複製物の作成販売

5 流通経路の整備維持

6 告知宣伝

7 創作者の管理監督“(P98

 インターネットに脅かされるのは、4の部分である。いわゆるマーケティングや広告宣伝事業である1、6、いわゆるタレントプロダクション事業である2、7、資金調達やプロジェクト管理事業である3の重要性は従前のままである。「プロデューサー」としての出版社の役割は、衰えるどころか益々増大しているのである。このことは、ブログが元となった『電車男』(中野独人 新潮社 2004年)や『生協の白石さん』(白石昌則 講談社)のベストセラー化の例を見ても言える。世に溢れる言説から、広く読まれるべきものを発見、選別して流通させる役割、それは昔も今も変わりない。

 “出版社にとって、ブック検索に参加することにはメリットとデメリットが考えられる。メリットは販売促進である。検索によってその本の存在がユーザーに知られ、購買につながるかもしれない。グーグルが本を販売するわけではないが、検索結果の画面からネット書店等にリンクが張られているし、実際に店舗を持つリアル書店の場所も教えてくれる。しかし、ネットでの閲覧だけで用が済んでしまえば、本は売れないかもしれない。それがデメリットだ。(P86)”と永江朗が揺らぐように、インターネットは出版・書店業界にとって「両刃の剣」である。だからこそ、出版社は、「プロデユーサー」としての役割を自覚的に担い、実践する必要があるのだ。その時書店は、「実験場」、「投資窓口」としての自らの役割を自覚、実践していく「劇場」であるべきなのである。

   
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© Akira    Fukushima
 2007/12
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