本屋とコンピュータ(75)
  

        福嶋 聡 (ジュンク堂 大阪本店)

 二〇〇六年四月、一人の哲学者が縊死した。『超越錯覚』(新評論1992)、『高学歴社会におくる弱腰矯正読本』(新評論2000年)、『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組み』(新評論 2005年)の著書がある、須原一秀氏である。それは、「…の責任を取って」でも、「世をはかなんで」の自死でもなかった。

 自死決行に先立ち、須原氏は遺書、否遺稿を認め、『新葉隠』と題した。その遺稿が、『自死という生き方 覚悟して逝った哲学者』というタイトルで、年明け早々、双葉社より刊行された。

  “「平常心で死を受け入れるということは本当に可能か?―それはどのようにして可能か?」ということを哲学研究者の一人として自分自身の心身を賭けて調査・研究し、後進に追試・研究の道を開く仕事が哲学研究者には残されていると考えたのである。”(P36)と須原氏は言う。「死の準備教育」は、ソクラテス以来の哲学の課題であり、まさにそのソクラテスの刑死こそ、「間接的自殺」という解答だと須原氏は見る。そして、三島由紀夫や伊丹十三の自死に、「老醜」への嫌悪/「楽しいうちに死にたい」という積極的な意志を見て取る。そして自らもまた、その意志に共感/共有するにいたるのである。

 かれらが、「老醜」を嫌悪したのが正しい選択であり、みずからも同じ意志を共有するにいたった根拠として、須原氏は、三十年にわたって九千人の死を看取ったヌーランドの『人間らしい死にかた』(河出文庫)を引く。

 “専門家としてヌーランドは、「はじめに」のところで「私自身、人が死に行く過程で尊厳を感じた例に出会ったことはほとんどない」と主張し、エピローグにおいても「臨終の瞬間は概して平穏で、その前に安楽な無意識状態が訪れることも多いが、この静けさはつねに、恐ろしい代償とひきかえでなければ得られない」と言っている。

 つまり、「自然死」のほとんどが悲惨なものであり恐ろしいものであるにもかかわらず、世間にはなぜか、「穏やかな自然な死」とか、「眠るような老衰死」という神話のようなものがあるが、それは間違った思い込みであることを問題にしているのである。(P140

 そして須原氏は、『葉隠』の「武士道」にその問題への答を見出す。

 “葉隠武士は、「武士道とは死ぬこととみつけたり」で、「死に狂い」あるいは「死にたがり」になることによって、官僚的幕藩体制の中で自尊心と主体性を維持しつつ生きる道を見つけたのである。それならば、老人たちも「老人道とは死ぬこととみつけたり」で「死にたがり老人」になって、「病気・老化・死」という体制の中で、自尊心と主体性を維持し続けてはどうであろうか。”(P162)自らの遺稿を『新葉隠』と題した所以であろう。

 “「老人道的自死」は共同体からの逃避ではなく、共同体内で共同体の構成員として立派に生き続けて行くために絶対に必要な「自尊心」と「主体性」を、最後まで維持し続けるための「共同体内での生活の一環」と見ることが出来る。したがって、共同体の側から見れば、共同体の成員が保持すべき価値かつ徳である「主体性と自尊心の保持」に準じて死んで行く形となる。”(P186

 「老人道的自死」は、「ニヒリズム」とは何の関係もない、自らの自死決行も自分の人生を肯定できるからこそ決断できたのだと須原氏は言う。

 “「老化」と「自然死」を嫌って自殺する人は、まさに「老化」と「自然死」だけ否定したのであって、人生全体を否定しているわけでもないから、厭世主義者でも虚無主義者でもない、ということである。”(235)“ソクラテスが刑死の当日に、いつもの友人たちといつもどおりのディスカッションにいつもの気分で楽しんで、あっさりと死んで行った原因と理由も実感をもってわかった気がした。”(251

 須原氏の論理は一貫しており、予想される「常識的」な反論は、あらかじめ封じられている。「本人はともかく残された家族が可哀想」といったありがちな「義憤」も、「父にもう会えないのは寂しいが、悲しむことではない」というのが家族で出した結論であり、“父が遺した原稿を本にして出版したい、そして多くの方に読んでほしい、というのが私たち家族の一番の願いです。”(「最後に」P285)という息子さんの言葉が無力化する。

 だから、須原氏の「自死」に対して情緒的に肯定はできないとはいえ、須原氏の思想へのありきたりな反論を、ぼくは棚上げしようと思う。須原氏は「老人道的自死」を万人に推奨しようとしているわけではなく、一方でほとんどの場合「悲惨」な「自然死」を、覚悟の上で受け容れようとする人々も、称揚しているからだ。ただ、一書店人の信念として、これだけは言っておきたい。書物とは、思想の完成態である以上に、人と人が出会いを媒介するもの、すなわち「終わり」ではなく「はじまり」のためのメディアであるのだ、と。

 現に、ぼくは『超越錯覚』をとても面白く読み書評を書き、それを読んだ須原氏が喜んで下さり当時勤めていた京都店にまで会いに来て下さった、またその縁もあって『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組み』をめぐっての東京での勉強会に参加させていただき、10数年振りに再会できたのである。(その時の須原氏はとても闊達で、決して「厭世家」などではなかったことを、“一言で言うと父は毎日楽しそうな人でした。”(P283)と「最後に」を書き起こす息子さんとともに、ぼくも証言できる。)

 自らの著書を盤石たらしめんとした須原氏の「自死」は、一方で自らの著書が「はじまり」となるべき議論への参加を不可能とさせた。著者の「自死」により、賛意も反論も、その宛先を失ってしまったのだ。サイン会やトークセッション、書評などを通じた書き手と読み手の交わりを見、自ら体験してきたぼくとしては、それは、厳しく言えば「著者の責任の放棄」とも言いたいのだ。

 須原氏にとれば、実際に「自死」することが、「著者の責任」であったろう。この二つの「著者の責任」は、両立しない。ならば、「自死」をある部分で奨励しながら、自らは努めて健康体を保って生き続けるという「超越」の仕方もありだったのではないか、と思う。そうした「超越」を見事にぼやかす「私小説」という伝統も、須原氏がそれを以て全世界を指導すべしという「武士道」とは別に、日本にはあるのだから。

   
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© Akira    Fukushima
 2008/02
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