本屋とコンピュータ(76)
  

        福嶋 聡 (ジュンク堂 大阪本店)

 今回は、最近大阪本店で開催した二つのトークセッションについて。

 一つ目は、227日(木)に行った、ご存じ、ぼくの論敵にして盟友でもある湯浅俊彦氏(夙川学院短期大学)の『日本の出版流通を考える―デジタル化とネットワーク化の情報社会の中で』である。湯浅氏の博士論文である『日本の出版流通における書誌情報・物流情報のデジタル化とその歴史的意義』(ポット出版)の刊行記念トークであるにもかかわらず、会場を設定し司会を仰せつかったぼくに気を使って下さったのか、湯浅さんは、1991年以来のぼくとの「SA化」論争の話題から語り始めてくれた。

 当初から湯浅氏は、安易な「SA化」への警鐘を鳴らし、ぼくはといえば、その警鐘が強すぎて「SA化」が必至の状況下でよりよき「SA化」を探求する可能性の邪魔をしている、「SA化」をよくするも悪くするもそれは使う人間の問題だ、と反論したのである。そうした原理論争を、POSレジ導入後の書店業界は、津波のように覆いかぶせてしまった。ひとことで言えば、ぼくの「SA化」必至という予言も、湯浅氏が警鐘を鳴らした負の部分(多くの中小書店の淘汰)も、現実のものとなったのである。そのことを湯浅氏は、ぼくの『希望の書店論』のP68から、“ぼくと湯浅氏は、当初から同じ峠に立ちながら、正反対の方向を見ていただけかもしれない。いや、同じ上り下りの激しい前方の山道を眺めやりながら、ぼくは稜線を、湯浅氏は谷の部分を、より注視していたと言うべきかもしれない。”という部分を引用して、総括された。

 その後、本来のテーマであるISBNコード、バーコード、更には昨今話題の電子タグへと話が進んでいった。面白いのは、今では当たり前になったISBNコードの導入そのものに反対した流通対策協議会などの存在があったという歴史であり、図書館界を含めた抵抗の歴史である。そもそもISBNコードの導入を強烈に訴えたのも図書館界であったことを、今では知る人も少ないであろう。

 こうした技術的な変遷が、果たして返品率の抑制につながったか、ムダがなくなり、本と読者を結びつけることになっただろうか、そうした「?」を湯浅氏は投げかける。

 何よりも印象深かったのが、「出版界の内紛・立場の違いを押さえて書く人がいない」という湯浅氏の研究・執筆動機だ。まさにそのとおりであって、「出版=書店業界」は、一枚岩だと思われすぎ、かつ思いすぎている。

 二つ目は、314日(金)に開催された子安宣邦先生による「懐徳堂と学びの復権」である。子安先生に、是非懐徳堂についてお話しくださいとお願いしたのは、ぼくの方だった。大阪商人によって設立された「学びの場」にとても興味を持ち、書店現場、書店でのトークセッションをそうした場に重ね合わせたく思ったからだ。子安先生のトークは、まさにその思いにかなったものだった。

 そもそも「教育」という言葉は、“education”の訳語であり、他の多くの近代漢語がそうであるように、明治時代に西洋語の翻訳のためにつくられた言葉である。確かに「論語」に「教育」という語はあるが、それは現在の概念内容とは違っている。孔子は、「学び」については語ったが、“education”の意味での「教育」については何も語っていない。

 懐徳堂もまた、みずから必要とする学校を、学者たちと手を組んで大阪の町人が創建したのであり、そのことが重要なのだ。「階級社会」の悪弊がいわれる徳川社会は、「学ぶもの」「学ぼうとするもの」に対しては開かれた社会であった。誰でも「学者」になれたのであり、江戸時代ほど学問のための学問がなされた時代はなかったとも言えるのである。懐徳堂には、全国から多くの人々が訪れ、そうした知的ネットワークの中で、さまざまなユニークな思想形成がなされた。

懐徳堂に限らず、近世社会の学習組織は、指導者を前提とした教育組織ではなく、あくまで学習者同士の学習組織であった。それに比べ、学問への意欲を失った教授たちによって、学習への意欲をもたない学生たちが、ただ教育指導される現代の大学という教育システムに、近代教育制度の成立が、何を失ったかを改めて思いみるべきである。

 大学が、大学の都合で講座をつくってしまっている現状は、懐徳堂の精神の死を意味すると言える。逆に市民の自生的な学への要求によって成立する「学び」の場はすべて“懐徳堂”である。書店が知的交流のセンターでありたい、現代の“懐徳堂”でありたいというぼくの(恐らくは分不相応な)思いに、子安先生は心からのエールを送って下さった。

   
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© Akira    Fukushima
 2008/03
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