章 可塑性とその分身

 

可塑性(プラスティシテ)の哲学

 いま、色も鮮やかな脳画像のイメージを携えて脳科学という言説が、新しい哲学であるかのような装いのもとで深い意味ありげに物語られている。それだけではなく、認知症予防のトレーニングやゲームとして、脳科学にもとづいて開発されたらしい商品が、次々と市場に現れては消費されている。そんな現代社会をどうとらえるか。脳科学の最先端の論点をとりあげながら、フランスの哲学者カトリーヌ・マラブーが投げかける「可塑性(plasticity, plasticite)の問い」は良い意味でも悪い意味でも真面目に考えてみる価値がある事例の一つだろう。

 ジャック・デリダのもとでヘーゲルに関する研究を行った哲学者マラブーが、脳科学を主題として論じていること自体が、脳という接頭語をつけた言説が哲学を含めたさまざまなジャンルに氾濫している昨今の「脳ブーム」を反映した徴候であるといえる。もちろん、そうした思想界での流行という面だけに尽くされるわけではない。ジャーナリズム的な意味合いと同時に、マラブーの議論は、脳を論じる言説を脳科学にまで遡行しつつ批評しようと目指す真摯な試みでもある。

 

 脳をめぐる思考が、科学や生物学の知識に関する問題としてだけではなく、哲学や人間理解の本質にも関わる問いとして提起され、グローバリゼーションや現代社会の政治を理解する範疇(カテゴリー)としても用いられるという思想的布置の内部にはめ込まれている現状においては、脳とその可塑性にまつわる話題は、ただ科学者だけにまかせておける議論ではなくなってしまっている。マラブーによる可塑性の哲学(『私たちの脳をどうするか』[1])は、最先端の脳科学的知見のわかりやすい見取り図となっていると同時に、現代社会のグローバリゼーションを批判的に再考する政治哲学の挑戦でもある。ここでは、その内容に簡単に触れておくことから始めて、可塑性をめぐる思考の射程を検討してみよう。

 

 マラブーが繰り返し指摘するとおり、可塑性とは、造形するという意味のギリシャ語plasseinから派生した言葉であり、現在の辞書的な意味では、文字通りには「固さ」つまり硬直性の対語である。ただし、柔らかいというだけの単純な意味ではなく、可塑性は受動的な意味での柔らかさと能動的な意味での柔らかさの二つを含んでいる。前者は、「粘土に可塑性がある」と言う場合のように<形を受け取る能力>があるということ(柔軟性)であり、後者は、フランス語でいう「造形美術(可塑的な芸術:l’art plastique)」という表現のように<形を与える能力>を有することにみられる用法である[2]。したがって、脳の可塑性において問題となるのは、もっとも単純なレベルにおいては、この二つの二項対立(硬直性と可塑性、柔軟性と可塑性)ということになる。

 

脳という機械

 まずは、硬直性と可塑性の対比という点から、脳を考えてみよう。

 すでによく知られたことだが、脳を形作る単位である数多くの神経細胞(ニューロン)とその結合のパターンは、そのすべてが遺伝子のプログラムによって先天的に決定されているわけではない。それは、人間の尊厳や自由というほどの難しい問いではなく、とても単純な算数の問題である。

 

 脳の皮質を構成するニューロンの数は正確には不明だが百億から千億ともいわれ、それらが情報伝達をする結合部位(シナプス)の総数にいたってはニューロンの順列組み合わせなのだから、さらに膨大な数である。そのすべてを決定論的に事前にプログラムするにはDNAのコードによって書かれた遺伝子の数はあまりに少なすぎるのだ。生物学的な実在としての脳は、たとえニューロンとシナプスで創られた一種の機械であるにせよあまりに複雑な機械であるために、通俗的な人間機械論によって想定されている硬直した時計仕掛けとはかけ離れたものであり、柔軟な機械とでも表現されることがふさわしい。事前に定められた設計図や超越的なプログラムに基づいて構築されたメカニックな機械としての脳というイメージを取り除いて、硬直性の呪縛から脳をめぐる思考を解放することは、可塑性の第一の試練となるだろう。

 

 遺伝子コードの硬直性と対比される意味での脳の可塑性は、J−P・シャンジューの『ニューロン人間』(新谷昌宏訳、みすず書房、一九八九年)、ジェラルド・M・エーデルマンの『脳から心へ 心の進化の生物学』(金子隆芳訳、新曜社、一九九五年)、ジョゼフ・ルドゥーの『シナプスが人格をつくる 脳細胞から自己の総体へ』(森憲作監訳、みすず書房、二〇〇四年)、V・S・ラマチャンドランとサンドラ・ブレイクスリーの『脳のなかの幽霊』(山下篤子訳、角川書店、一九九九年)などの脳科学者たちによるベストセラーともなった一般向け入門書においても繰り返し強調されている点だ。つまり、可塑性に関しては脳科学という領域のすべてを含むともいえるほどに膨大な生物学的研究が積み重ねられている。この広大な分野を理解しやすくするには、マラブーも指摘するとおり、脳可塑性には三つのレベル(発生、調節、修復)が混じり合っていることを区別するのが有用である。

 

第一にくるのは「発生の可塑性」である。それは、人間も含めて生物個体の受精卵からの発生に関わって、脳や神経系の柔軟で複雑なシステムがいかにして成立するかという問題に関わる。そのもっとも強力で印象深い表現は、エーデルマンの提唱した「神経ダーウィニズム」仮説(神経細胞群淘汰説:Theory of Neuronal Group Selection)に見いだすことができるだろう[3]。これは、生命の発生と分化についてのキリスト教的な創造説とチャールズ・ダーウィン以来の進化論(ダーウィニズム)との対比と同じようにして、受精卵からの個人の発生についても、遺伝子コードという事前の設計図を重視する考え方と神経細胞群の進化(淘汰による変化)を対比させて、後者に重きを置く立場である。ちょうど進化論が一神教の神のプランによる天地創造説に対する批判であるのと同様に、遺伝子コード一辺倒の単純な生命観への批判ということもできる。また、発生の可塑性を強調する視点とは、前もってのプログラムが存在しない状態から、どうやって脳という複雑な秩序が内在的に生産されるのかを説明しようとする仮説でもある。脳のニューロン群の配置やそのシナプスのパターンは硬直的ではないおかげで、発生の過程において、超越的な指令がなくても、それが置かれた環境や経験にしたがって、進化論で仮定されているのと同じプランなき自然選択による淘汰を通じて、可塑的に脳という秩序を形作ることができるという説だ。この場合の可塑性とは、発生の過程において、当初は順列組み合わせ的に多数存在していたニューロン群やシナプス結合のなかで、環境への適応で必要とされるものだけが生き延びて保存され、必要とされず活動しなかったそれらは逆に衰退していくことで、自然選択が働き、最適なニューロン群やシナプス結合のパターンが生成することを意味している。

 

第二の「調節の可塑性」は学習や記憶に関わっている。これは、ニューロン群とシナプスで構築されている脳内のさまざまな回路がすでに与えられているとして、その回路の使用頻度がどれだけ高かったかというそれまでの経験の歴史性にしたがって、その回路の強度(脳科学的に表現すればシナプス伝達の結合効率)が強化される方向に調節されていくという説である。もちろん、発生の可塑性と調節の可塑性は連続的ではあるが、おおまかには、すでに発生の段階を終えた(成体の)脳や神経系でのさらなる変化のことを指している。

 

記憶や学習という能力の生物学的基盤を、脳の可塑性、とくに神経回路の情報伝達における結合効率の調節に見いだそうとする発想それ自体は目新しいものではない。とくに哲学の領域で有名なのは精神分析の創始者であるジクムント・フロイトの科学的心理学草稿に現れる疎通(Bahnung)の概念だろう[4]。彼は、心的エネルギーの伝わりやすさに程度があるという仮定をたて、それを疎通と呼んでいた。当時は、多数のニューロンがシナプスによって結合してシナプスを通じた情報伝達を互いに行うことで、脳という複雑なシステムが成立していなかったことを考慮すれば、優れた先見の明といってもよいだろう。

 

ただ、シナプスの結合効率(シナプスでのニューロン間の情報伝達の効率の程度)の変化と記憶や学習との関連性を首尾一貫した明確な理論として提示したのはカナダの心理学者D・O・ヘッブ(『行動の組織化』、原著1949年)[5]である。その意味での活動依存的あるいは経験依存的な可塑性(activity / experience-dependent plasticity)はこんにちでもヘッブの可塑性(Hebbian plasticity)とかヘッブのシナプス(Hebbian synapse)。と呼ばれている。脳科学者ルドゥーによるざっくばらんな表現では、その仮説の本質は「ワイヤー・アンド・ファイアー理論」であって、「ヘッブの考えは『ともに発火(ファイヤー)する細胞はともに配線(ワイヤー)される』というスローガンに要約される」ということになる[6]

 

三つ目の可塑性である「修復の可塑性」は、発生や調節の可塑性とは異なり、病気や障害からの治癒に関わっている[7]

脳卒中のような病気、事故による脳外傷、あるいは手術などによる脳損傷が生じた場合、その傷ついた局所の脳部位に対応する能力(たとえば運動や体性感覚や視覚という能力)は失われる。脳は左右の二つの半球に分かれており、左半球は右手足、右半球は左手足の運動や感覚をコントロールしている。そのために、成人の場合に一方の半球に重大な障害が起きれば、程度の軽重はあれ、それと反対側の手足にマヒが生じることは避けられない。成人になってからは、一般的にはニューロンは増殖することは少なく、それまでの機能を再生するように秩序だって増殖することはほとんどないとされる。

 

しかし、重度のてんかん発作などの治療のために、小児の脳半球の一方を外科手術によって切除したとしても、まったく運動マヒなどの症状が後遺症として残らない場合があるのだ。とりわけ劇的とも言えるほどの回復を見せるのは六歳以下の小児の場合だが、成人の場合でも、時間の経過とともに自然に、あるいは集中したリハビリテーション訓練によって、いったん失われた能力がある程度は回復する場合があることもまた臨床の現場ではよく知られている。この修復の可塑性のメカニズムについては、分かっていないことも多いが、おそらくは、ニューロンそのものは増殖しなくてもその結合であるシナプスが新しく生み出されること、あるいはそれまでにはあまり使われていなかったニューロン群やシナプス(発生の可塑性において淘汰されて機能低下していたもの)が機能を発揮するようになることが、重要ではないかと考えられている。

この意味での脳の可塑性を治療やリハビリテーションに応用することは、医学領域でのホットなテーマとなっている[8]

 

柔軟性(フレキシビリテ)を爆破せよ

 さて、脳の可塑性という問いに関わる二つめの賭け金へと移ろう。この第二の点、つまり可塑性と柔軟性の差異は、マラブーによれば、脳科学そのものというよりもその政治的・イデオロギー的な次元と密接に関わる。

 

 

脳が各個人のなかにすぐれて指導的な審級を構成しているために、脳についてなされるあらゆる記述は、常にどうしても政治的分析の性質を帯びることになるのだ。こうしたわけで、脳がもつ力のさまざまな様相に関する科学的研究は、同時に―暗に、そしてたいていの場合、無意識的に―この研究自体が同時代に対してもつ権力についての態度表明であると、わたしたちは主張できるのである[9]

 

 

 可塑性には二重の意味が含まれており、<形を受け取る能力>(すなわち柔軟性)であると同時に、<形を与える能力>でもあったことを思いだそう。脳のもつ柔軟性だけが強調されるとき、同時に生じているのは、ネットワーク、脱局在化、順応性などの言葉が、脳の生物学的性質を記述する脳科学の用語が日常言語のなかに頻出するという事態だ。マラブーは正当にも、この柔軟性という理想が現代社会における組織で規範とされる人間観にぴったりと重なるものであることに注意を喚起している。

 

軍隊や国家の官僚制を範としたような上意下達の中心からの指令というタイプの階層序列化した組織において、その成員が求められるのは、あらかじめ定められた自分の役割を機械の歯車の一部として果たすことである。流れ作業式の大量生産工場での労働者の役割は、硬直した固定的なものだ。

 

これに対して、こんにちの企業のモデルとなるのは、グローバルに展開しながらも機敏に自主管理をすることのできる柔軟なチームからなる組織だ。そんなチームでの上司とは、上下関係のなかでの権限を持った命令者というよりも、ネットワークの作動を調整するマネージャーとして表象される。また、個々の労働者も、一つの技能に特化した熟練労働者として終身雇用されるのではなく、脱局在化して、さまざまな職種に順応しながら、しかもそれらをフレックス・タイムでこなすことが求められることになる。国境を越えた資本と投資の流通が増大するにつれて、産業のスクラップ・アンド・ビルドは加速化し、雇用は断片化して短期的なものになる。細切れになった雇用のチャンスは、柔軟性をもった労働者だけに流動的な一時的労働として与えられるだろう。しかも、労働者は、人的資本として、失業している間も職業再訓練を通じて、あらゆる雇用のチャンスに適応できるように、自らの柔軟性を高めることが要求される。

 

いうまでもないことだが、柔軟性を一方的に経済効率性の上昇と選択の自由の増大として称える賛歌は、グローバリゼーションによって利益を得ているエリートによって描き出されたネオリベラリズムのおとぎ話のようなものだ。支配され賃労働に従事させられる人々にとっては、めまぐるしく変わる社会環境や不安定な組織に一方的に適応させられ服従させられるという意味での柔軟性は、大工場での労働における硬直性と同様に好ましいものではない。むしろ、柔軟性によって将来に対する予測可能性がなくなるという意味では、不安定さの感覚を強化するものだろう。

 

マラブーによれば、可塑性が、グローバリゼーションを賛美すると同時にその秩序を強化する機能を果たすイデオロギーとしての柔軟性へと言い換えられたときに脱落してしまった要素とは、可塑性の<形を与える能力>としての側面なのだという。ただし、ここで主張されていることは、脳科学という領域において、グローバリゼーションを肯定する柔軟性のイデオロギーに対して、可塑性の科学性を対置するという単純な二項対立ではない。

 

 彼女の言う可塑性の概念にはもう少し複雑なところ(弁証法的といいかえてもいいが)がある。可塑性とは、過去にあったできごとを記憶してそれに合わせた<形を与える能力>であると同時に、その否定すなわち<形を消滅させる能力>でもあるというのだ。可塑性(プラスティシテ)という語のなかに含まれた消滅という意味を取り出すために、プラスティック爆弾による破壊というイマージュにまつわる意味連関が参照される。

 

 

可塑性は、堅牢な過去にプラスティックコートをかけること―すなわち凝固―とこれをプラスティック爆弾で爆破すること―すなわち爆発―のあいだにある未来という約束を成し遂げるのである[10]

 

 

アルフレッド・ノーベルによるダイナマイト発明(一八六六年)の三〇年以上前に死んでいたヘーゲルは、プラスティック爆弾など想像すらしていなかったはずではあるが、<形を与える能力>と<形を消滅させる能力>は同じ一つの能力の二つの側面であるという点については、マラブーに同意することはできる。

 

形を与え、凝固させ、ときに消滅させる能力としての可塑性、この未来へと開かれた可塑性を考察するためには、脳科学における三つの可塑性(発生、調整、修復)に加えて、より哲学的な意味合いの強いもうひとつの可塑性、すなわち「ニューロンが形成する原型(マトリクス)からの特異な人格の形成を可能にし特徴づける四番目のタイプの可塑性」[11]を導入することが必要だというのが彼女の暫定的結論である。

 

だが、心脳問題について、およびグローバリゼーションの政治についてのいくつかの鋭い明察を含んでいるにもかかわらず、最後に表れるこの脳(ニューロン)から心(人格)への移行と相互作用に関わる可塑性という問題設定はあまりに神秘的で心脳二元論の音調が強すぎるのではないだろうか。「可塑性の問い」に対して答えるためのプログラム的言明において、「脳の弁証法的思考を練り上げる」[12]などという陳腐で貧困な哲学的決まり文句(クリーシェ)が無邪気に書き付けられていることからみても、マラブーの思考の限界は明らかだろう。

 

われわれは、ニューロンやシナプスをめぐる議論から人間や心や主体性や弁証法という哲学的問題群へと転回して弁証法に媚びを売るマラブーからは離れて「可塑性の問い」のレベルにあくまで滞留しつつ、脳を思考することに挑戦してみることにしよう。それは、ドゥルーズ=ガタリ的意味合いにおいての<脳の唯物論>を徹底化させることと言い換えてもよい(ただし脳が非物質的な何ものかとして理解されるかぎりにおいてだが)。

 

 

思考するのはまさに脳であり、人間ではないのであって、人間とは脳におけるひとつの結晶にすぎないものである。セザンヌが風景について語るように、脳について語ってみよう―「不在の、しかし脳のなかではまったき人間」[13]

 

 

この論考では、脳科学でのトピックの一つである「メタ可塑性(metaplasticity)」の議論を導入することによって、「可塑性はいかにして可塑的になりうるか」という問い(二重化=分身化された可塑性)を脳科学―哲学―政治学の接合として考察しよう。

 

メタ可塑性 可塑性のリミットとしての

 まずは、脳科学の理論の方に少し迂回してみる。

 シナプスの結合効率の調節の可塑性こそが、ニューロン群で形成された神経回路内での情報伝達効率を決定し、その結果として学習や記憶の生物学的基礎としての役割を果たしているのではないかというヘッブの仮説に再び戻る。正確には、彼は自分の考えを次のように定式化している。

 

 

細胞Aの軸索が細胞Bの十分に近くにあって細胞Bを興奮させることができて、しかも繰り返して持続的にBを発火させたならば、何らかの成長過程や代謝変化が一方または両方の細胞に生じて、細胞Bを発火させるという細胞Aの効率は上昇する。[14]

 

 

この細胞AとBの間のシナプスの結合効率の可塑性という理論的な問題設定を、脳科学的に実験可能な課題として提示したのは、T・ブリスとT・レモによるシナプス長期増強(Long-Term Potentiation: LTP)現象[15]の発見だった[16]。その実験の手順はおおまかには次のようなものだ。

ウサギの脳を使った動物実験で、彼らはまず、その脳部位に入っていく経路に一発の電気刺激を行って、それに対する神経細胞の反応を記録した。これは、ヘッブの仮説で言えば、Aの刺激に対するBのシナプス応答反応に相当する。電気刺激の大きさが一定であれば、Bの反応の大きさは、AからBへの情報伝達の率(シナプス結合の効率)によって変化することになる。

 

次に、彼らは、一秒間に数十回程度の高頻度の電気刺激を同じ経路に与えるという処置を行ったつまり、AからBへの経路を標的として、同じ刺激経路が活動するようにして、「ワイヤー・アンド・ファイヤー」が生じるようにしたのだ。その後に、最初と同じように、また同じ経路に一発の電気刺激を与えて神経細胞(B)の反応を記録すると、その反応は高頻度刺激を与える前よりも強くなり(AからBへの情報伝達の効率の上昇)、しかもその効果は数時間以上持続していたのである。この実験系においては、ウサギは何かを学習したり記憶したりするわけではなく、脳のニューロン群で形成された神経回路のコネクションの強度という神経生理学的な事象だけしか登場していない[17]。しかし、ヘッブの仮説で示されている形式に従っているという意味では、そのシナプスは高頻度刺激を受けたという経験を記憶しているかのように振る舞っているわけだ[18。もちろん、こうした現象は、繰り返された脳活動パターンが維持されるということに過ぎず、日常言語での「記憶」のもつ意味内容の豊富さや経験的豊かさを欠いている。同じ用語を使っていても、日常言語の記憶と脳科学用語の記憶では指し示す事態が異なっているということ自体、現代社会における脳科学の役割という点からは興味深いが、ここでは、LTPと可塑性の関係に集中しよう。

 

どんなに単純化した仮説だとしても、シナプスの結合効率の増強による特定の神経回路の強化だけでは、学習や記憶という複雑な現象を説明するには不完全だということは、脳科学者たちも当初から自覚していた。LTPとは逆に、使われなくなったり不要になったりしたシナプスについては、その結合効率が低下するようなメカニズムもまた必要とされるからだ[19]

 

発生の可塑性という分脈で、このことを示したのはD・ヒューベルとT・ウィーゼルによって行われたネコの視覚野(ものを見る能力に関わる脳の部位)の実験だった[20]。まず、彼らは、おとなのネコの視覚野のニューロンのほとんどは左右どちらか片方の目への刺激に対してだけ反応すること(半分は右目、半分は左目)を見つけた。しかし、幼いネコで同じ実験を行うと、ニューロンは両方の目からの視覚入力に反応した。次に、幼いネコの片目を手術で閉じてしまい、おとなになったところで再び目をあけさせたところ、視覚野のニューロンの多くは開いていた目の方にだけ反応するようになっていたのだ。このことから、彼らの導き出した結論は、発生の可塑性とは、発生初期にはもともとあった両方の目からのシナプス入力が、そのシナプスの使用頻度に応じて自然淘汰され、おとなになると片方の目からのシナプス入力だけが生き残るようになったという説だった。

 

これは個体発生という例だが、神経回路における結合の低下ということを、学習や記憶というレベルで言い換えるとすれば、過ちを抑制し、不必要なノイズを減らすことに結びつくメカニズムとなるだろう。LTPの場合とは異なったパターンの電気刺激(たとえば、一秒に一回程度の低頻度の電気刺激など)を与えた後に、シナプスの結合効率の抑制が認められる現象(Long-Term Depression: LTD)が存在することは、抑制的な可塑性の例の一つと考えられる。

 

よく使われるシナプスではLTPが生じてその結合効率が強化され、あまり使われない別のシナプスではLTDによって抑制されるという原理は、神経ダーウィニズムでいう自然淘汰の論理に一致するものであって、いかにして神経回路が事前プログラムなしに一定の安定したパターンを秩序として生成するかを説明することができる(ヒューベルとウィーゼルの実験で示された発生の可塑性)。だが、ある特定の環境条件において、ある特定の神経回路に含まれた複数のシナプスが、シナプスごとに、あるものは増強の可塑性を示し、別のものは抑制の可塑性を示すというモデルだけではいまだ十分ではない。もし、ある特定のシナプスが強化されるという方向にしか可塑性を示さないのだとすれば、さまざまな情報を受け取り伝達しているうちに、そのシナプスはまもなく飽和し、入力される情報に対して毎回最大の反応を示すようになって、選択性を失ってしまうと考えられるからだ[21]

 

すべての情報が選択されることなく蓄積していったときに、どのような不都合が起きるかについては、ホルヘ・L・ボルヘスの小説の登場人物である「記憶の人フネス」のことを思い出してみることは無駄ではないだろう。フネスは落馬の事故をきっかけとしてベッドに寝たきりとなった代わりに、絶対に間違いのない知覚と記憶の能力を得る。彼は目に入る事物やできごとのすべてを、その細部に至るまで完全に記憶することができるようになる。しかし、すべてを記憶することができることは、外界の詳細で完全な記録という複写を実現することではあったとしても、何かを選び取って記憶するという実践の不可能性へとつながる。「世界が始まって以来、あらゆる人間がもったものをはるかに超える記憶を、わたし一人でもっています」と自慢するでもなくつぶやいたフネスは、すし詰めの細密画のような記憶に窒息させられそうになりながら、さらに「わたしの記憶はゴミ捨て場のようなものです」と付け加えないではいられないのだ[22]

 

ここで得られるべき重要な教訓は次のことだ。すなわち、記憶や学習に関わってシナプスの調節の可塑性が可能となる条件とは、一つのシナプスのうちに可塑的な増強のメカニズムとその増強を可塑的に抑制するメカニズムとが同時に含まれていることになるだろう。可塑性には、<形を受け取る能力>と<形を与える能力>だけではなく、そうした能力と外延を同じくして<形を忘れる能力>もまた内在的に備わっていることが生物学的に要請される。マラブー流の<形を消滅させる能力>とここでいう<形を忘れる能力>の違いを詳しく検討する前に、もう少し、脳科学における可塑性をめぐる論点をたどっていってみよう。

 

ここで問題となるのは、増強と抑制というシナプス可塑性の二つの方向性はいかにして可塑的に調節されるのか、という点である。こうして、われわれは、「可塑性の可塑性」として二重化された可塑性である<メタ可塑性>と出会うことになる。

 

 

メタ可塑性とは、シナプスあるいは神経細胞活動によって誘導される現象ではあるが、通常のシナプスの結合効率の変化として表れるものではない。そうではなく、LTPやLTDのようなシナプス可塑性を誘導する能力の変化として表れる。したがって、メタ可塑性とは、シナプス可塑性の高次の形式である[23]

 

 

このメタ可塑性とは、環境や歴史性によって規定された情況に応じて可塑性を調節し、シナプス結合の増強と抑制のバランス、さらには可塑的な柔軟性と非可塑的な硬直性のどちらを発現させるかを時間的・空間的に決定し配分する原理を指している[24]

 

柔軟性と硬直性のどちらもが可塑性から生じるというメタ可塑性の議論が、脳科学においてばかりではなく、現代社会の批判的な政治分析を行う上でもまた重要と思われる理由は、それがわれわれをグローバリゼーションのなかでの柔軟性と硬直性のもつ種別的な社会的機能とは何かという具体的な探求[25]に直面させるからだ。たとえば、国境を越えたトランスナショナル企業がネットワーク的組織になり、意思決定の仕組みも雇用形態も柔軟性を高めているということは事実だ。しかし、それはグローバルに分散化したシステムを効率的にコントロールする本社機能が、情報インフラが整い、ほかの企業や国家機関とのフォーマル・インフォーマルの調整が容易で、企業の意志決定を支えるエリートが快適に住まうことのできるグローバル都市(ニューヨーク、ロンドン、東京など)に集中して、ある意味で硬直化することによって支えられていることも忘れてはならない。

 

また、金融と資本の国境を越えた流通の自由化という柔軟性は、中央銀行と財務省による会計の規制やコントロールの増強や硬直化をともなっている。東アジアにおける柔軟な経済的自由化と発展(たとえば中国沿岸部の経済特区)が、政治的な支配という面での硬直化を伴っていることもその例だろう。

 

可塑性やその従順なる相棒である柔軟性がグローバリゼーションの政治のなかで肯定的理想として表象されていること[26]は事実である。しかし、柔軟性をたんにネオリベラリズムのイデオロギー的武器として退けるというのはあまりに単純すぎる態度だ。だからといって、マラブーのように、柔軟性に抗する可塑性を肯定して、<形を与える能力>(とその爆破)の復権を唱えて満足することでもまた十分とは言えない。ここで求められているのは、たんなる柔軟性のイデオロギーの哲学的批判ではなく、柔軟性と硬直性の絡み合う諸実践の総体を政治的分析の対象とすることだ。脳科学的なメカニズムとしての可塑性それ自身は、望ましく有用で肯定的なものでもなければ、呪詛すべき無用で否定的な何ものかというわけでもない。

 

可塑性とその不満

ここで、われわれは、狭義の脳科学の領域、つまり神経伝達物質や受容体や脳切片でいっぱいの象牙の塔を離れて、脳をめぐる臨床の現場での修復の可塑性とその用法に少し耳を傾けてみることにしよう。

 

 修復の可塑性が、脳障害の後遺症を軽くするためのリハビリテーションの基礎となるメカニズムと考えられていることを先に紹介した。この場合の可塑性は、障害という変化に適応するのに有用であるという意味で、望ましい可塑性と呼ぶこともできるだろう。しかし、可塑性はまたわれわれの生に対立する否定的なメカニズムとなって脳につきまとい、悪しき可塑性となってしまう場合もある。

 

 その一つの例は「幻肢痛(phantom pain)」という現象だ。手や足のような身体の一部を切断する事故にあったり、手術を受けたりした患者の場合に、もはや存在していないはずの身体の部分の感覚をありありと体験するという現象が起きることがある。この奇妙な経験は、「幻肢(phantom limb)」と呼ばれているのだが、そうした感覚を持つ患者の一部は、幻の腕や脚に耐えがたい痛みや不快を感じるという。この幻肢痛については、たとえひどい痛みがあったとしても、痛みの場所である身体部位がもはや幻のように存在しないために、治療することはきわめて困難であるとされる。

 

 脳科学者のラマチャンドランによれば、幻肢や幻肢痛という現象は修復の可塑性に関連しているという[27]。もともと人間の身体表面の触覚は、脳の表面で縦に帯状に走る領域(感覚野)のなかに、ちょうど小人を逆立ちさせたような形で対応している。脳のてっぺんに近いところには脚があって、そこから上から下へと胴体、手、顔が順に続いていく。たとえば、腕が切断された場合、腕に対応した脳の部分への腕の末梢神経からの感覚入力がなくなってしまう結果として、この脳に描かれた身体の地図には時として大きな可塑的変化が生じる。もともと腕からの感覚を受け取るはずだった場所が、顔や胴体からの入力を受け取るようになるのだ。一方の腕を切断したある患者の例では、あごの周りや肩の周囲を触られたときに幻肢の感覚が生じて、あたかも切断された腕を触られているように感じたという。このようにして生み出された一種の修復の可塑性のために、脳は外界から混乱した感覚情報を受け取ってしまい、幻肢として知覚したり、ときにはその感覚を強い痛み(幻肢痛)として経験したりするのだ。

 

 修復の可塑性が悪しき可塑性となるもう一つの例は、手指を頻繁に用いる人に起きることの多い病気であるジストニー(代表的なものは書痙)だ[28]。これは、腕の切断によって感覚情報の入力が減少することによって生じる幻肢と逆の感覚入力の過多による現象である。タイピストや音楽家(ピアニストやバイオリニストなど)のように複数の手の指の細かい協調運動を職業的に繰り返す人の場合、その繰り返している特定の行為をするときにだけ手や腕の筋肉の緊張が異常に高まって筋肉のけいれんがおきてしまったり、不必要な指が動いたりするようになる病気である。音楽家の場合には音楽の演奏中にだけこの手の運動の異常が起きて演奏できなくなってしまい、音楽家生命が絶たれることさえある。この病気の原因についての有力な仮説は、複数の指を同時に動かすことを動作に含む訓練や仕事を繰り返したためにヘッブの可塑性が生じて、手指を別々に感じたり動かしたりするはずの脳が手指の細分化した感覚表象や運動プログラムを失って、細かいコントロールができなくなる方向へと可塑的変化を生じてしまったという理論である。

 

 こうした修復の可塑性が否定的な帰結を生み出した例から分かるのは、悪しき可塑性とは結局のところ<形を受け取る能力>の問題ではないということだ。<形を受け取る能力>が<形を与える能力>に従属させられ、身体の触覚的表面の配分パターンが脳の感覚野に複写として押しつけられるとき、亡霊のような痛みである幻肢痛(ファントム・ペイン)が立ち現れる。また、力強く非有機的で美しい旋律を奏でるために、<形を消滅させる能力>があまりにもすばやく脳の表面に描かれた手指の形を爆破してしまうときに、音楽家の手は奇妙な形にねじれて硬直し、ジストニーによって演奏の能力が失われる。

 

 では、いかにして、<形を与える能力>に支配されてしまうことも、<形を消滅させる能力>によって性急に解体されてしまうこともなく、<形を受け取る能力>としての可塑性の好ましい用法を見つければよいのか。

 

 脳科学の理論と現代社会の分析とを短絡させてしまうことの危険を承知の上で、可塑性の論理によって、グローバリゼーションの政治をさらに読み解いてみよう。そこでは、<形を与える能力>と<形を消滅させる能力>のいずれもが袋小路に入り込んでいるとも見えるからだ。雇用の流動化が人々に限りなく柔軟であることを強制しているとき、同時に<形を与える能力>としてのナショナリズムや自民族中心主義が硬直化し、さまざまな場所でマイノリティへの排外主義や差別を強化しつつあることは、ファントム・ペインと似通ってはいないだろうか。一方で、すべての確固たる秩序を消滅させながら過剰なまでの流動性や柔軟性を求め続けた金融資本が、投機的なバブル経済に突き進んで炸裂し、コントロールを失って破綻したことは、ジストニーと似通ってはいないだろうか。

 

 <形を与える能力>とその変形である<形を消滅させる能力>は、それぞれが反対方向に働く能動的な能力であって、その二つの力のせめぎ合いだけでは、与えることと受け取ることの円環の反復という閉域から抜けだすことはできない。意図的に定められたプログラムを持たないし目的論的でもないとどんなに言い張ったとしても、<形を与える能力>は能動態である限りにおいて、いまだに与えるべき形を何らかの姿で前提としてしまっており、「場全体の俯瞰」[29]を暗黙のうちに含み込むことを避けられないからだ。また、<形を消滅させる能力>は、その単純な否定である限りにおいて、<形を与える能力>を超えるものではない。

 

 これに対して、メタ可塑性は、能動的ではなく受動的な能力であるという点が最大の特徴であり、<形を受け取る能力>と<形を忘れる能力>の配分と総合としてとらえることができるだろう。メタ可塑性による調節作用を受けたシナプス可塑性は、プラスとマイナスの間、つまり増強と抑制の間に配分されるだけではなく、そのリミットにおいては無変化という零度にしがみついて非可塑性と区別できないものとなる。

 

 メタ可塑性における可塑性の零度というあり方は、私たちを、一九世紀末のメルヴィルの小説[30]に登場する蒼白の筆写係バートルビーへと導く。コピー機のない時代に書類を書き写す仕事をしていた彼は、雇用主に何を命じられても、命令に従うことなく、しかも命令を明確に拒否もしないままにこうつぶやき続ける。「できればしないことを好むのですが(”I would prefer not to.”)。」小説は、彼をもてあまし、無理矢理に職場から追い出してしまいつつも、彼の行く末を案じて自分なりのやり方で援助しようとする雇用主の語りによって進行し、取り立てて大事件が起きるわけではない。

 

さまざまな読解が行われてきたこの小説に、あえてさらに脳科学的な分析を付け加えてみよう。奇妙な主人公のあり方は、柔軟性という規範に抵抗しつつも、可塑性を拒否することによる硬直性やシナプス結合の爆破ではなく、零度の可塑性としての非可塑性をも実現することのできるメタ可塑性とも重なり合うのではないだろうか。台詞を「できれば可塑的に変化しないことを好むのですが」と言い換えてみてはどうだろう。すなわち、ニューロン人間、シナプス人間、可塑性人間のリミットとしてのバートルビー。

 

 二重化された可塑性としてのメタ可塑性は、あるときは、形を受け取ることで環境の激変に対する柔軟な可塑的適応性を示し、また別のときには、受け取るべき形を忘れ去り続けることによってどんな硬直性よりも頑固に非可塑的な抵抗を持続させることになる。この特徴を脳科学的理論としてではなく、現代社会における変革の政治が満たすべき条件として読み替えてみよう。すると、与えられた文書写しの仕事をしないままに事務所の一角にとどまり続けるバートルビーが、ついにウォールストリートの失業した浮浪者たちの群れの傍らで静かに目を閉じるとき、われわれは気づかざるを得ない。結局のところ、現代社会における可塑性とは「来るべき民衆」のいまだ形なき形を受け取る能力であるか、さもなければ何ものでもないということに。すなわち「民衆脳」[31]

 

 

 


 

[1] カトリーヌ・マラブー著、桑田光平、増田文一朗訳、『わたしたちの脳をどうするか ニューロサイエンスとグローバル資本主義』、春秋社、二〇〇五年(原著二〇〇四年)。

[2] カトリーヌ・マラブー著、西山雄二訳、『ヘーゲルの未来 可塑性・時間性・弁証法』、未来社、二〇〇五年(原著一九九六年)、三一―三二頁。

[3]エーデルマン、『脳から心へ 心の進化の生物学』の第九章。

[4] ジグムント・フロイト著、小此木啓吾訳、「科学的心理学草稿」、『フロイト著作集 第七巻』、一九七四年、人文書院、所収(原著一八九六年)。また、その意義について現在の脳科学の視点から論じたものとして、K・H・プリブラム、M・M・ギル著、安野英紀訳、『フロイト草稿の再評価 現代認知理論と神経心理学への序文』、金剛出版、一九八八年(原著一九七六年)。

[5] D. O. Hebb, “The Organization of Behavior: A Neuropsychological Theory”, Lawrence Erlbaum Associates, Publishers, 2002 (originally 1949).

[6]ルドゥー、『シナプスが人格をつくる 脳細胞から自己の総体へ』、一一八頁。

[7]ラマチャンドラン、ブレイクスリー、『脳のなかの幽霊』にも多くの事例が紹介されている。また、誤訳が目立つが、ジェフリー・M・シュウォーツ、シャロン・ベグレイ著、吉田利子訳、『心が脳を変える』、サンマーク出版、二〇〇四年(原著二〇〇二年)は、リハビリテーションと可塑性に関する研究の現状についての優れた入門書である。

[8] B.R. Payne and S.G. Lomber, Reconstructing functional systems after lesions of cerebral cortex, Nat Rev Neurosci, 2: 911-919, 2001.

[9] マラブー、『わたしたちの脳をどうするか ニューロサイエンスとグローバル資本主義』、五六頁。

[10] マラブー、『ヘーゲルの未来 可塑性・時間性・弁証法』、二八二頁。

[11] マラブー、『わたしたちの脳をどうするか ニューロサイエンスとグローバル資本主義』、一一七頁。

[12] マラブー、『わたしたちの脳をどうするか ニューロサイエンスとグローバル資本主義』、一三九頁。

[13] ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著、財津理訳、『哲学とは何か』、河出書房新社、一九九七年(原著一九九一年)、二九八頁。

[14] D. O. Hebb, “The Organization of Behavior: A Neuropsychological Theory”, p.62

[15] 厳密には、彼らの表現ではLLP (long-lasting potentiation)であって、LTPという用語が使われたのはR・M・ダグラスとG・V・ゴダールによる(R.M. Douglas and G.V. Goddard, Long-term potentiation of the perforant path-granule cell synapse in the rat hippocampus, Brain Res, 86: 205-15, 1975.)。

[16] T. Bliss and T. Lomo, Long-lasting potentiation of synaptic transmission in the dantate area of the anaesthetized rabbit following stimulation of the perforant path, J Physiol (London), 232: 331-56 (1973).

[17] 学習や記憶という高次脳機能を動物実験によって生物学的に研究する手法としては、学習や記憶そのものを動物に行わせることではなく、その基盤となっているはずの可塑性をもった神経回路を詳細に研究することから出発しなければならないという研究プログラムは、E・カンデルとW・A・スペンサーの記念碑的論文(一九六八年)によって提示され、その後の脳科学研究の方向性を規定した(E.R. Kandel and W.A. Spencer, Cellular neurophysiological approaches in the study of learning, Physiol Rev 48: 65-134, 1968.)。

[18] 厳密には、一つの入力と一つの出力を組み合わせたLTPのモデルでは、学習や記憶という現象を説明するにはあまりにも単純すぎる。ワイヤー・アンド・ファイヤー理論を一般化したものは、二つの入力と一つの出力の組み合わせをモデル化した連合性(associative)LTPになるだろう。「一般的なアイデアは古くからあるもので、二つの細胞なり細胞群なりが繰り返して同時に活性化すれば、その二つは『連合』し、一方の活動がもう一方の活動を促通するだろうということだ。」(D. O. Hebb, “The Organization of Behavior: A Neuropsychological Theory”, p.70

[19] こうした発想を初期に明確に定式化したものとしては、G. Stent, A physiological mechanism for Hebb’s postulate of learning, Proc Nat Acad Sci USA, 70: 997-1001, 1973がある。

[20] T.N. Wiesel and D.H. Hubel, Single-cell responses in striate cortex of kittens deprived of vision in one eye, J Neurophysiol, 26: 1003-17, 1963. ルドゥー、『シナプスが人格をつくる 脳細胞から自己の総体へ』、一一二〜一一八頁にも簡単に紹介されている。

[21] E.L. Bienenstock, L.N. Cooper, P.W. Munro, Theory for the development of neuron selectivity: Orientation specificity and binocular interaction in visual cortex, J Neurosci, 2: 32-48, 1982. この論文ではメタ可塑性の基本的なアイデアが示されており、著者らの名前のイニシャルをとってBCMモデルとも呼ばれる。

[22] J・L・ボルヘス著、鼓直訳、「記憶の人フネス」、『伝奇集』、岩波文庫、一九九三年(原著一九四四年)所収、一五六頁。

[23] W.C. Abraham and M.F. Bear, Metaplasticity: the plasticity of synaptic plasticity, TINS, 19: 126-30, 1996. p. 126.

[24] M・F・ベアーは、メタ可塑性を次の三条件に定式化している(M.F.Bear, Bidirectional synaptic plasticity: from theory to reality, Phil Trans R Soc Lond B, 358: 649-55, 2003.)。(1)シナプスの可塑性は増強と抑制の二つ方向に調節される、(2)可塑的変化の方向性(増強か抑制か)は、ある調節要素が閾値を超えているかどうかによって定まる、(3)この調節要素の閾値は、そのシナプスがそれまで置かれてきた環境や経験という歴史性によって規定される。余談ではあるが、われわれは最近、メタ可塑性の調節要素の一つがドパミンであることを発見した(Y. Ueki, T. Mima et al., Altered plasticity of the human motor cortex in Parkinson’s disease, Ann Neurol, 59: 60-71, 2006.)。もう一つ余談になるが、連合性LTP/LTDにおけるメタ可塑性は、連合した二つの入力の時間的前後関係によって規定されること(spike timing-dependent plasticity, a temporally asymmetric Hebbian rule)が報告され、注目されている(O. Paulsen and T.J. Sejnowski, Natural patterns of activity and long-term synaptic plasticity, Cur Opin Neurobiol, 10: 172-9, 2000.)。

[25] グローバリゼーションは、一方的に国民国家という硬直性のシステムを弱体化して柔軟なものに置き換えるわけではない。国際金融や移民のフローをコントロールするために国家装置の硬直した線分性が利用され、ときには以前よりも強化される(サスキア・サッセン著、伊豫谷登士翁訳、『グローバリゼーションの時代 国家主権のゆくえ』、平凡社、一九九九年(原著一九九六年))。

[26] 柔軟性の重視という考え方は、必ずしも脳科学に固有の発想とはいえないことに注意しておく必要がある。脳というシステムの個体発生における柔軟性と自然淘汰を重視するニルス・イェルネやエーデルマンは免疫学から転向した脳科学者だった。また、米国でIT産業やニュー・エコノミーがもてはやされた一九九〇年前後に、柔軟性を称揚する免疫学の言説が、マネージメントなどの領域に大々的に入り込んだことを、人類学者E・マーチンは指摘している(エミリー・マーチン著、菅靖彦訳、『免疫複合 流動化する身体と社会』、青土社、一九九六年(原著一九九四年))。

[27]ラマチャンドラン、ブレイクスリー、『脳のなかの幽霊』

[28] P.A. Celnik and L.G. Cohen, Cortical plasticity and motor disorders, In H-J. Freund, M. Jeannerod, M. Hallett, R Leiguarda ed. “Higher-order motor disorders: From neuroanatomy and neurobiology to clinical neurology” Oxford University Press, 2005., p.p. 455-73. また、シュウォーツ、ベグレイ、『心が脳を変える』にも詳しい。

[29] ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、『哲学とは何か』、二九七頁。

[30] 手に入りやすいのは、ハーマン・メルヴィル著、高桑和巳訳、「バートルビー」(原著一八五六年)、ジョルジョ・アガンベン著、高桑和巳訳、『バートルビー 偶然性について』、月曜社、二〇〇五年(原著一九九三年)所収。

[31] ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、『哲学とは何か』、三一〇頁。

 


 

 

 

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美馬達哉(みま・たつや)/1966年、大阪生れ。京都大学大学院医学研究科博士課程修了。現在、京都大学医学研究科准教授(高次脳機能総合研究センター)。専門は、臨床脳生理学、医療社会学、医療人類学。著書に、『〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学』(人文書院、2007年)。

 

 


© Tatsuya Mima 2009/06
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