○第111回(2011/12)

 10月に刊行された國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)は、刺激的な示唆に満ちた、とても面白い本である。

 古く、狩猟を中心とした遊動生活から農耕を中心とした定住生活への、いわゆる「定住革命」以来、人類は、〈暇と退屈〉に悩まされてきた。

 さらに、人びとが長きに亘る痛ましい労働に耐え、時には闘争も辞さずに手に入れた〈暇〉を、フォーディズムは飽く迄も生産性を向上させるために、(それと気付かれることなく)管理しようとする。

 ユクスキュルの「環世界論」を受けて「退屈」を詳しく吟味し論じたハイデッガーは、自らが参加したパーティを具体例として、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合っている状態を「退屈の第二形式」と呼んだ。國分はその「退屈の第二形式」を生きることこそ、人間の生であり、人間の「正気」であるとしながら、「退屈」から脱出するためにハイデッガーが選んだ「決断」が、周囲に対するあらゆる配慮や注意から自らを免除し「狂気」の奴隷になるものだと看取、ハイデッガーが取ったのとは違う道を目指す。

 定まった環世界の中でひたすら決定づけられた通りに生き、死んでいく動物に暇も退屈もない。人間は環世界を相当な自由をもって移動できるから退屈する、それが人間的な生の宿命だ、と國分はいう。

 一方で、人間は「考える」。絶えず変化していく世界の中で、危機に陥った時、それまでの習慣では立ち行かなくなった時に。「考える」時、人は何かに〈とりさらわれ〉ている。環世界間の自由な移動が、阻まれる。だから、「考える」ことは〈動物になること〉なのだ。この逆説が面白い。〈人間であること〉をたのしむことで、〈動物になること〉を待ちかまえることができるようになる。これが『暇と退屈の倫理学』の結論である。

 「考える」ことの大事なよすがとして、或いは大きな契機として〈暇と退屈〉に侵入してくるもの、それが本である。読書のさ中には、人は本に〈とりさらわれ〉ている。本に〈とりさらわれ〉ながら、自分なりの理解の仕方を見つけていく。だから大切なのは結論ではなく「理解する過程」なのだ。即ち、本を読むとは、その論述との付き合い方をそれぞれの読者が発見して行く過程なのである。

 過程の重要性を無視して結論だけを手に入れようとしたとき、人は与えられた情報の単なる奴隷になってしまう。結論は、通読するという過程を経てはじめて意味をもつ、と國分は言う。(この辺りの議論に、あのスピノザが援用される!)

 読者は本書『暇と退屈の倫理学』を通読することによって、暇や退屈についての新しい見方を獲得した。「本書を読むことこそ〈暇と退屈の倫理学〉の実践の一つなのだ。」と國分。この入れ子構造が、また面白い。

 一方、もう一つの結論は、「贅沢=浪費することを取り戻せ。」である。

 浪費は物を過剰に受け取ることだが、物の受け取りには限界があるから、それはどこかでストップする。そこに現れる状態が満足である。

 それに対して、消費は物ではなくて観念を対象としているから、いつまでも終わらない。終わらないし満足も得られないから、満足をもとめてさらに消費が継続され、次第に過激化する。満足したいのに、満足をもとめて消費すればするほど、満足が遠のく。そこに退屈が現れる。

 そこにこそ、ボードリヤールの描く「消費社会の神話と構造」があり、文化産業が人びとの〈暇と退屈〉を草刈り場とする図式があるのだ。そこから逃れるためにも、國分は消費ではなく、浪費を提唱するのである。

 これら「浪費/消費」、「物/観念・記号」、「満足/退屈」の二項図式に、「紙の本/電子書籍」をかぶせてしまうのは、余りにも我田引水だろうか?紙の本には、物である限りの「受け取りの限界」があり、電子書籍は、無際限の「所有」を謳う。通読するには紙の本が良く、電子書籍は検索に便利と使い分ける人も多い。そして検索とは、いわば過程抜きの最短距離の結論とは言えないか?

 本が「侵入」してくることによって人が「考える」ことを始動する、という國分の議論は、『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社)に佐々木中が書きつけた、さらに激しい多くの言葉を想起させる。


「本を読むということは、下手をすると気が狂うくらいのことだ。」

「書店や図書館という一見平穏な場が、まさに下手に読めてしまったら発狂してしまうようなものどもがみっしりと詰まった、ほとんど火薬庫か弾薬庫のような恐ろしい場所だと感じるような、そうした感性を鍛えなくてはならない。」

「わかってしまったら狂ってしまうかもしれないものではないと、一流とは呼べない。防衛性を起動させ、ゆえに奇妙な退屈さや難解さを、「嫌な感じ」を感じさせないものは本とは呼べない。」

「どうしてそんなことが出来たのか。当然です。文学が生き延びる。藝術(アート)が生き延びる。革命が生き延びるということが、人類が生き延びるということだからです。それ以外ない。何故書くのか、何故書き続けるのか。書き続けるしかないじゃないですか。他にすることでもあるんですか。」
(本コラム2011/2、第101回を参照。)


 東北大震災、福島原発事故が修復不可能かとさえ思われる深い傷跡を残し、政治・経済が相変わらずの停滞を続ける2011年、足音を忍ばせながらしかし着実に迫る電子書籍の脅威に抗して、紙の本に限りないオマージュを捧げる若い書き手たちに出会えたことを何よりの喜びとし、希望を抱きながら新しい年を迎えよう。



 

 

<<第110回 ホームへ  第112回>>

 

福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)