○第199回(2019/5)

 前回ご紹介した、3月30日の梅田蔦屋書店のトークイベントは、5月27日発売の『「ユリイカ」6月臨時増刊号「総特集 書店の未来」』で、18ページに渡って紹介されている。トークの本編部分はほぼ収録されているので、読んでいただければ幸いです。

  ただし、客席からの質問・意見とそれへの応答は、入っていない。その中に、これからの書店を考える上で、非常に大事になると思われる一言があったので、紹介したい。

  自身書店で勤務する、若い男性からの質問である。

  “「本屋に行くと、どんないいことが待ってますか?という質問がありましたが、このイベントに来ている人は、みんな本が好きだったり、書店が好きだったりする人だと思うので、それぞれがその問いへの答えは持っていると思う。自分は、書店の「書店論」という棚に置いてある本が、アレルギー的に一切読めなくて、書店の人が、「書店っていいよ」と書店で話をしているのも、ちょっと気持ち悪くて。マスターベーション的というか。その魅力を、書店に普段来ない人に届けるにはどうしたらよいかを考えていて、ぼく(29歳)と同世代の人たちー普段本屋に足を運ばないけれど「本は読まなあかんな」という意識は持ってくれていて、「本屋に行くと何かいいことがある」とフンワリとは思っている人たちに、本屋に来てもらうには、どうしたらいいと思いますか?”

  3人の登壇者は、一瞬絶句した。投げかけられた言葉の中に、そのトークイベント自体を否定していると言える部分があったことも確かだが、そのことに悪意を感じたからではない。端的に、答えが、答えへの糸口も見つからなかったからである。

 “難しいですね。確かに、いつも考えていることですが…。いつも考えていながら答えが出てないことを、即興で答える…、これはなかなか難しい…”

 紀伊國屋書店の百々さんが、絞り出すような声で言ったことが、登壇者3人の正直な(答えにならない)答えだっただろう。

 それでも、何か糸口を見出したいと思ったぼくは、苦し紛れ(?)に言った。

 “書店に来てもらったときに、まずニッコリと笑うこと。その場が心地よいものでなければ、ダメだとおもうんです。その上で、出来ればお客から笑いを取ることができるような芸は、持っておきたいと思います”

 イベント中、ぼくが会場の笑いを最も取れたことばでもあった。

 その時に、そのイベントに集まっていた人たちは、質問者の言うとおり、登壇者、司会者も含めて、本好き、本屋好きという共通の嗜好で、一つのコミュニティを形成していた。そのコミュニティの力が、そのイベントを恙無く最後まで進行させ、無事終了させてくれたことは間違いない。だが、そのコミュニティの力を、コミュニティ外に及ぼすことの困難もまた、その場の共通認識であった。質問は、端的にそのことを示唆していたし、登壇者の回答もまた、その困難を否定せず、会場からも質問に対する異論はなかったからだ。その困難は、出版・書店業界の閉塞状況の最大の原因である。「いつも考えていながら、答えが出ていないこと」である。

 コミュニティ。デジタル大辞泉(小学館)では、「居住地域を同じくし、利害をともにする共同社会。町村・都市・地方など、生産・自治・風俗・習慣などで深い結びつきをもつ共同体。地域社会。」大辞林(三省堂)では、「@人々が共同体意識を持って共同生活を営む一定の地域、およびその人々の集団。地域社会。共同体。」ほぼ同じである。だが、実際には、コミュニティという言葉はもっと広い意味で使われているように思われる。

 大辞泉の定義は、コミュニティは、「居住地域を同じくし」かつ「利害をともにする」と連言的に読むのが自然だが、実際には、「居住地域を同じくし」または「利害をともにする」と選言的にとらえられているのではないか。つまり、居住地域を同じくする者の共同体と、利害をともにする者の共同体という、重なる部分はあるにせよ決して一致するわけではない両義性を持っていると思う。

 「利害をともにする」という点で、出版・書店業界は、一つのコミュニティである。読者もまた、―経済的な利害は対極にあるという見方ももちろんできるが―、本の世界が豊穣であることに利益の一致を見る点で、同じコミュニティに属すると言っていい。先に言ったとおり、そのコミュニティが3月30日のイベントを成立させたのだが、終幕せんとするまさにその時に、そのことに存在する危うさを、件の質問は明らかにしてくれたのだった。そして、その危うさこそ、出版書店業界の危機をもたらしていることに、登壇者はもちろん、会場にいたおそらくすべての人が、気づいた。コミュニティは、常に閉じられてしまう危険を伴っている。そして、閉じられてしまう危険は、コミュニティの存続自体を脅かす。

 我々のイベントから約1ヶ月後の4月25日。ところは同じ梅田蔦屋書店。斎藤幸平さんの『大洪水の前に』刊行記念トークイベントで、今度はぼくが会場からの質問者となった。

 “「労働を実現する物質的条件を欠いた労働者たちは将来の保証なき「潜在的貧民」として行き続けなければならない:「奴隷・農奴関係」においては、「こうした分離は生じない」とマルクスは述べている。」などの箇所、地主と農奴の関係の「和気あいあいとした外見(dea gemuethliche Shein)」などの表現に、産業資本主義以前の身分社会への憧憬さえ感じてしまうのですが、いかに資本主義の反エコロジカルな性格を強調するためとはいえ、こうした復古主義的な色合いは、やはり危険なのではないでしょうか?”

 斎藤幸平さんは、 ベルリン・フンボルト大学で博士(哲学)の学位を取得、すでに海外では認められ、昨年ドイッチャー賞も受けられた若きマルクス研究者の若き俊英で、マルクスの抜粋ノートなどが新収録された新マルクス・エンゲルス全集の編集委員として、晩年のマルクスの自然科学研究に注目している。環境問題にも強い関心を寄せ、「生産力至上主義」というこれまでの反エコロジー的なマルクス観がいかに間違っているかを綿密に論証していくのが、彼の日本で最初の出版物となった『大洪水の前に』(堀之内出版)である。

 資本の自己増殖を至上命題とする資本主義は、人間と自然との関係=「物質代謝」の適度を無視し、そして自然の許容量を無視し、自然と人間双方からの略奪を続け、その限界を超えて環境破壊をもたらす。すなわち、エコロジーと資本主義批判は親和的であり、資本主義批判を骨子とするマルクスの思想は、むしろエコロジーにとって強力な同志なのである。それを証しするのが、晩年のマルクスの農学、地質学などの自然科学研究なのだ。

 トークの相手を努めた酒井隆史さんが、「これだけ、学問的な、地道な作業が、結果的に、こんなにおもしろい本になるとは!」と評したように、『大洪水の前で』の緻密な論証と明快な結論には、ぼくも大いに賛同する。だが、だからこそ、その議論がある種ロマン主義的なものに逸れていく可能性を摘み取りたいと思ったのだ。イノベーションや下克上だけを称揚するつもりはないが、(資本主義のような)ダイナミズムを持たない共同体もまた、賛美することはできないのである。

 そうした読み方を察知されたのだろう、斎藤さんは、「私の解釈は、福嶋さんのそれとは、違う」と答えられた。

 マルクスに、復古主義的、ロマン主義的な意図を読み込むのは、的外れな誤読かもしれない。わずかな言葉遣いへの違和を論うのは、枝葉末節の議論かもしれない。だが、ぼくがどうしてもそれにこだわってしまったのは、3月30日のトークイベントでの、件の質問の重みを、書店人として強く感じていたからである。

 「本は、素晴らしい」「本は、読むべきだ」「書店へ足を運ぶべきだ」とぼくたちは訴え続ける。だが、その訴えは、「『読書の学校』これからの書店と愛する本について」という名のトークイベントに参加してくださる出版書店業界、本好き、書店好きにとっては自明の話で、その人たちを大きく変化させることはない。せいぜい「再確認」させるだけで、状況を好転する動因にはならない。

 大学生の読書アンケートの結果などを引いて、「本を読まない人が増えた」と嘆きながら、「本を読まない人」「本を読まなくなった人」「書店に足を運ばなかった人」に対して、本を読むべき理由、書店に足を運ぶべき理由を語りかける努力を、果たしてぼくたちは出来ているだろうか?質問者は、そのことを痛烈に突いてきたのだ。

 「読書離れ」を理由に、自分たちの存続の危うさに立ち向かう努力を怠ってきた、それが何よりも出版・書店業界の衰退の原因ではないか?そのことを、ぼくは何度も言ってきた。ささやかな試みもしてきた。大学の「キャリアデザイン」の授業での講演を頼まれた時には、必ず本を読む理由、書店に足を運ぶ理由を話した。近畿大学の集中講義「出版流通’書店論」でも、15コマ中2コマをその話に使った。昨年に引き続き、ジュンク堂書店難波店の店内で行った阪南大学流通学部森下ゼミ学外特別講義のテーマは、「なぜ本を読むのか? 何故書店に行くのか?」である(本コラム190回)。

 実際、最初に学生さんたちに「本を1ヶ月に1冊以上読む人?」と訊ねたとき、上がる手はいつもほんの僅かである。しかしそれでも、否だからこそ、ぼくは「なぜ本を読むのか?」を語らなければならないと思う。それこそが、(前回のコラムで言及した農業の比喩でいうならば)書店の「収穫」のために何よりも大切な「土壌づくり」だからだ。

 一方、書店の店頭に立っていると、足繁く通ってくださるお客様、一度に何冊もの本をカウンターに持ってこられるお客様が、何人もいらっしゃる。繰り返しトークイベントに参加してくれている若い人もいる。本を読む人、読まない人は、「読者の共同体」の内外を形成している。その内と外を隔てている壁を、何とか壊していきたい。少なくともぼくたち―本を売ることを生業とする者は、今ある「読者共同体」に甘んじ、安んじていてはいけない。斎藤幸平さんのトークイベントで、マルクスの資本主義批判とエコロジーの連携が、資本による労働搾取、自然破壊を攻撃する余り、よもや前近代の共同体を憧憬することがあってはならないとぼくが思った背景には、そうした思いがあったのかもしれない。

 ぼくたちは、「読者共同体」の壁を壊していかなければならないのだ。

 


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)